晩秋、森の奥にて。
「……早いね」
「……大好きなのよ、おいも」
炎が燻る枯葉から、白い煙が細く昇る。
濃い朱、夕日色、チョコレートの色、あめ玉の黄色。色とりどりの落葉はちりちりと鮮やかな赤を見せ、真っ白になって消えていく。
人の気配のない錦の森の奥、物珍しげに集うポケモンたちの真ん中で、Nとトウコは火を囲み、傾きかけた陽のもとに座していた。熾き火が時々ぱちりと爆ぜるのに合わせて、見計らったように秋風が駆け抜ける。
肌寒いこの季節、トウコの思いつきで、サツマイモを焼いていたのだ。
「トウコのほうが大きいものを食べていたと思ったけれど」
「だって美味しいんだもん」
そう言いながら、トウコはNを振り返る。そして、彼の手のひらに残った拳ほどの大きさのサツマイモに気がつくと、ぱちくりとまたたいた。髪と同じ色をしたまつげが揺れる。
確かにNの言うとおり、ほんのしばらく前に枯葉の奥から引きずりだしたサツマイモは、自分の手にあったものの方がひと回り大きかったはず。
好物だからって、夢中で食べ過ぎたかも。
トウコは今更、顔をしかめた。じわじわと、頬から体温がにじむ。
それなりの大きさだったサツマイモは、今やすっかり自分の胃袋の中だ。ほのかな香りが手のひらに残る以外には、欠片も残っていない。いくら少食のNが相手とは言え、男性よりも勢い込んで食べてしまうだなんて、女の子としてどうだろう。それも、可愛らしいケーキやクレープならまだしも、サツマイモである。
あたし、可愛くなさすぎ。
トウコの小さな、ぽたりと赤い唇が尖った。白く細いため息がこぼれ落ちる。
カノコを旅立ってからこちら、トウコは自分が女の子であることを、あまり意識しなかった。もちろん、全く気にしないでもなかったけれど、ポケモンと旅をするトレーナーである以上どうしても、常に身奇麗にしてはいられない。野宿もすれば、きのみだって食べるし、数日シャワーも浴びられなくてげんなりすることだってある。とはいえ、人とポケモンだけの日々が続けば、他人の目を気にすることもそれほどに多くはないから、特に困りはしなかった。それに、そうして旅をしているのは、なにもトウコだけではない。
ずっとそうしてきたのに、最近それが、どうもうまくいかない。
あの頃から幾分かの時が流れ、時々こうしてNと会うようになってから、どうしてか今まで通りにできないのだ。すっかり忘れていた女の子の自分が、妙に顔をだそうと仕掛けてくる。
「はぁ……」
「どうしたの」
「……ううん、なーんでも」
トウコは手のひらをじいと見つめた。草のしみ、ポケモンたちと遊んでいる間に出来てしまった引っかき傷、爪の隙間に入り込んで、なかなか取れない土。トレーナーらしい手ではある。けれど、女の子らしいとは、およそ言いがたい手だ。
かわいくないなあ、トウコは内心、またつぶやく。
頬に手を当てNを見あげれば、彼はまだサツマイモを咀嚼していた。そのスピードはのんびりしていて、勢い込んで食べきったトウコにくらべるとずいぶんと遅い。
――もしかしてNは、サツマイモが好きじゃないのだろうか。自分が好きだからって、押し付けてしまったかしら。はたとそう思いついたトウコは急に不安になり、Nを覗き込んだ。
「……Nはあんまり好きじゃない?」
声をかけられ、ふと顔を上げたNは、わずかに目を見開く。ほんの数秒前まで眩しいおひさま色の笑顔を見せていた少女の、白い眉間によったささやかなシワの理由に首をかしげ、Nはとっくりと思考を巡らせた。そして、ぐるぐると考えながら視線を下に落とし、不意に気がつく。
あっという間に姿を消した、少女の手の内にあった大きなサツマイモ。その半分ほどもないのに、未だに己の手の内に残っている、それ。
なるほど、とNはひとり頷く。そして、違うよ、と応えた。
「気に入らないから残しているわけじゃあない。ゆっくり食べているだけだよ」
「……そうなの?」
「ただ、水分が欲しいかなという気はするね」
この焼き芋とやらはなかなか唾液を吸うねと、至極真顔でNは言った。
神妙に、回りくどくぼやくのは、彼にとって最大の気遣いなのだろう。そんなこともできるようになったのだ、と思い、トウコはおかしいやらさみしいやらで、笑い顔と困り顔のないまぜな、珍妙な顔になった。
それからはたと我にかえり、慌ててばたばたと、摩訶不思議な収納力を誇るカバンをひっくり返す。手のひらのことなど、一瞬で吹き飛んだ。
「ゴメン、あたし全然気づかなかった」
「不味いと思っているわけではないよ」
むしろ美味しい、そう呟くNの言葉は簡潔だ。「美味しい」を美々しく彩る言葉は数多あるし、知識として知らぬでもないだろうに、Nはきまって「おいしい」「おいしくない」、はたまた「好きだ」「好きじゃあない」でシンプルに味を表現する。情緒がないとチェレンは嘆き、素直でいいじゃないとベルは笑う。
Nの発言にはすっかり慣れっこのトウコは、いつものように苦笑して、カバンの横の方に押し込まれていた赤い水筒を取り出した。今朝、ポケモンセンターを出るときに淹れた紅茶が入っているのだ。
「お茶と一緒なら多分、2倍美味しい」
「2倍?」
「あっ、もちろんあたしの主観よ」
数字の裏付けがあるわけじゃないわ。理論思考のNが何かを言うより早く、トウコはそうまくし立て、Nの言葉を遮った。カップを差し出しながら、Nの隣に座り直す。Nは珍しくも目を大きく見開いて、それから微かに笑った。
「先手を打ったね」
「経験がモノを言うのです」
違いない、また笑ったNは優雅とも言えるのんびりした速度で、冷めつつあるサツマイモを頬張った。なるほど紅茶があったほうがおいしい、そうつぶやくNにトウコは胸を張る。
「でしょ」
「そうだね、美味しいよ」
「……あたしも紅茶と一緒に食べればよかった」
ついさっき、食べ過ぎで可愛くないなどと思ったこともすっかり忘れ、羨ましげな顔をしたトウコの膝の上に、ボールから出て遊んでいたゾロアが、ぴょこりと顔を出す。何か言いたげに小さく鳴くのに首をかしげていると、Nが小さく笑う気配がした。隣を振り返る。
「なんて?」
「もう一個あるよ、だって」
「え?」
「トウコ、焚き火の中にもう一つ入れたじゃないか、ってゾロアが」
「あああっ」
こっちもすっかり忘れてた!
小さく叫び、慌てたトウコはガサガサと、長い木の枝で、火の燻る枯葉をつつく。ころんと転がってきたのは、Nのこぶしほどの小ぶりなサツマイモだった。満面の笑みで手に取ったトウコの手首に、ゾロアがじゃれく。
「食べてみたいと言っているよ」
「ゾロアにお芋食べさせても平気かな?」
「人工物ではないし問題はないと思うね」
「じゃあ、ゾロア、半分あげる」
トウコの細い指がアルミをかき分け、ほくほくと湯気をあげるサツマイモを割った。ふうわり、素朴な甘い香りが鼻孔をくすぐって、トウコはうれしげに目を細める。ほっこりと空気が和らいで、Nはひととき、吹き抜ける秋風の冷たさを忘れた。ちらちらと落ちる木漏れ日が、トウコとゾロアの頬で踊るのを、眩しげに見つめる。トウコは視線に気づかずに、膝の上のゾロアを抱え直した。
「はい、ゾロア。熱いから気をつけ……あっつ!!」
ごろりとサツマイモが落ちる。キャン、とゾロアの悲鳴があがった。
声に驚いたNが目を見開くと、トウコは指を振って顔をしかめていた。
「火傷かい」
「そんな大したものじゃないけ……N?」
宙をふらふらとかき回す白い指先を捕まえて、Nは己の眼前に引きずり出す。本人が言うとおり、確かに大したものではなかったが、それでも、トウコの右の人差し指が、ほんのり赤くなっていた。
「冷やさないと」
「大げさだよ」
「でも赤くなってる」
「痕になるほどじゃないし、大丈夫だって」
「火傷を甘く見ちゃいけない」
曇り空に似た青年のひとみが、じいとトウコを覗いた。ガラス玉のようで、どこを見ているのか分かり難いけれど、今はしっかりとトウコを写している。
思わず魅入り、トウコは息を止めた。Nはトウコの指を引き寄せ、うっすら赤いそこを見つめる。傷だらけの指先をまた思い出し、トウコはうつむいた。お願いだからそうまじまじと見ないでと思いはするものの、言葉に出来ない。ああもっと、綺麗な手だったらよかったのに。
いたたまれない反対の手は、膝の上のゾロアをぎゅうと抱きしめた。
「……でもあたしの指なんていっつも傷だらけだし汚いし、今更、別に」
「トウコが真摯なトレーナーである証だよ。誇れることだ」
Nの白い指が、トウコの指を、緩やかにたどる。短く切りそろえられた、言うとおりに汚れた爪と、少女にしては肉の薄い小さな関節を、あやすようにさすった。ひんやりとつめたい青年の指は、トウコの手を優しく包む。トウコはめまいのようなゆらぎを感じて黙りこんだ。
「ボクにはとても、綺麗に思える」
呟き、そっとなでる。それはいっそ、愛おしげにさえ見えた。
言葉を呑んだトウコを見ずに、Nは背後を振り返る。火を避けて遊んでいたバイバニラが、なんですかと言いたげにふわりと寄ってきた。
「トウコに氷をあげてくれるかい」
心得た、とばかりにバイバニラが吐息をつけば、キラキラ輝くちいさな氷柱がNの手のひらに落ちる。Nはそれを、いまだ握っていたトウコの指に押し当て、息をついた。
「冷たいだろうけれど、少し我慢して…………トウコ?」
銀の瞳が持ち上げられ、真正面の少女の、赤く熟れた頬を映す。理由がわからず首を傾げた青年の視線を避けるように、トウコはぷい、と横を向いた。
指は冷たいのに頬は熱い。混乱に、視界はあちらこちらを彷徨う。心がどうにかなってしまいそうだった。
「どうかしたのかい」
「な、なんでもない」
「痛むの?」
「ち、ちがうよ」
「ならいいけれど……」
大事にしなければだめだよ。少しずれたNの囁きに、トウコはうつむく。
きしし、トウコを見上げたゾロアが膝の上で笑った。
ふたりを包む森の、影に潜む気配達は優しい。
傷だらけの手も大事にできそうな、そんな気がした。