春の雨

「はあ、はあ。助かったー」
「雨ぐらいで大げさだ」
「ああもう、びしょびしょ。最悪」

 ぱた、と水滴が頬を打ち、おや、と見あげた時にはもう遅く。
 白い空から、無数の白糸が落ちてくるところだった。

 もちろん、ポケモン勝負に夢中になっていて、気づくのが遅れたのが、敗因。
 急いでポケモンたちを引っ込めたわたしたちは、慌てて近くの洞窟に避難した。
 久しぶりの全速力で、ちょっと肺が痛い。

「はあ。いいとこで中断になっちゃうし、こういう日に限って、傘ないし。今日ってばついてなさすぎ」
「その四次元ポケット的なカバンに、傘だけ入ってないっつーのがオレには信じらんねえ」
「日頃から傘を持ち歩かない人に言われたくありませんー」
「うっせ」

 シルバーくんは舌打ちをして、手近な岩に腰を下ろした。
 わたしもならって、ぺたりと座る。
 すると、おしりからひんやりと岩の感触が伝わってきて、体がぶるりと震えた。
 メガニウムのチコさんも、わたしの隣で、ぷるぷると首を振って水滴を飛ばしている。
 空気も苔生した岩も、じっとりと冷たい。その上、追い打ちを掛けるみたいに、洞窟の奥の方から、涼しい空気が流れ出してくる。

 生まれた震えはむずむずと背を這って、くしゅん、と情けなく飛び出した。

「ううっ、さむーい……何時止むかな」
「知らねえ」
「ラジオでお天気番組もやってくれれば良いのに! 通り雨ならいいけど……わっ」
「それ着とけ。体冷やすぞ」

 すんすん、再三鼻を鳴らすわたしを見兼ねたのか、岩から飛び降りたシルバーくんは、自分が脱いだ上着をわたしの頭にバッサリ掛けた。突然暗くなった視界に慌ててそれを取り抜けると、黒いTシャツ一枚のシルバーくんは腕を組んで、ぎろりとこちらを見下ろしている。わたしはそれを見て口をつぐんだ。

 シルバーくんは細いし、顔色もちょっと悪い。
 ――つまり。ひどく寒そうに見えたのだ。

「あの……寒そう、なんだけど」
「オレは平気だ。――バクフーン」

 ぼん、と軽やかな音を立てて、シルバーくんのバクフーンが飛び出した。
 彼はきょろり、マスターと同じ色の瞳をめぐらせる。そして、シルバーくんがなにか言うより先に理解したらしい。水が嫌いなはずの彼は健気にも、ずぶ濡れのマスターに擦り寄った。そうして、顎の下に手を置いて横になり、大人しく目を閉じる。
 なるほど、いつもこうやって暖を取っているのか。

「……懐いたねえ」
「うるさい」
「ほめたのに」
「いいからとっとと羽織れ! 風邪ひいたらここに放って行くからな!」

 それは嫌だ、と急いで羽織った上着は、濡れているはずなのにほんのりと温かかった。

 あ、そうか、シルバーくんの体温だ。

 そう考えて、なぜだかわたしはいたたまれなくなった。
 自分の感覚を誤魔化したくて、濡れた帽子を膝に抱え込む。

「……ありがと」
「ふん」

 そっぽを向かれてしまった。
 それきり、言葉はなにもない。

 わたしは小さくため息をついた。

 シルバーくんは無口じゃない。よくしゃべる子、だと思う。
 でも、言うだけ言うと黙り込んでしまう。

 そして、もうお前に用はない、と言わんばかりに、どこかに行ってしまう。

 そう、いつもそうだ。

 さわさわさわ

 ぴちゃん、ちゃぷん

 ぴたん、ぱたん、ぽたん。

 沈黙の洞窟に、雨の音が静かに響く。
 瞳を閉じて深く息を吸えば、土と緑の優しい匂いが、胸いっぱいに広がった。
 それから、慣れない、人の香りも。

 誤魔化したはずのいたたまれなさが、またこみ上げてきた。
 なんなのこれ。
 つんけんしてるくせにふわっとやさしい香りだなんて、そんなのずるい。

「……おい」
「……はい?」
「熱ねえだろうな」
「え?」
「赤い」
「わたし?」
「他に誰がいるんだよ」

 オレは赤くねえだろ、三人目でも見えてんのか。とシルバーくんが顔をしかめる。

「や、なんでもない! なんにも見えてないよ!!」

 そんなの見えてたまりますか、マツバさんじゃあるまいし。
 そう呟くと、あいつ見えるのか、とシルバーくんは嫌そうな顔をした。
 なんとか自分を誤魔化すために、わたしはアハハと笑ってみせる。

「マツバさんは、色々見えるらしいよ」
「そういやイタコばっかりだったな、ジムも」
「手持ちもゴーストタイプばっかりだし」

 ゲンガーを2匹も連れてるトレーナーはそうそういない。
 ちらりとシルバーくんは、ベルトのモンスターボールに目をやった。きっと、自分のゲンガーに視線を投げたんだろう。

「シルバーくんはゴーストタイプが好きなの?」
「別にこだわりなんてない」
「……まあ確かに、割とバランス良いチームだよね。あと紫っぽい」
「あのエンジュのジムリーダーの方が紫だろ」
「マツバさんの紫ぶりには誰だってかなわないよ」

 なんせ、本人も、ゲンガーも、ヤミラミも、フワライドも、みんな紫だもの。
 そこまで話して、うなづかれて。

 そしてまた静かになってしまった。

 まるで瞑想でもしてるみたいに、シルバーくんは目を閉じて、バクフーンに寄りかかっている。
 わたしはいたたまれなくなって、自分の鞄をごそごそといじくった。
 チコさんが、ふんふんと覗きこんでくる。ごめんね、今はおやつは持ってないよ。

「あ……れ」

 チコさんの頭をなでながら、カバンの中身を確認して、わたしはとんでもないことに気がついた。

「どうした」
「え、ええ……っと」

 いち、に、さん、し。空っぽのボールが、いち、に。

 ――2個、だと?

「うっそ」

 ジンジャー、リヒャルト、しおんちゃんと、しろがねさん。それからチコさんの空っぽのボールと、中身のない……

「ニノちゃんがいない!!」

 わたしはさーっと青ざめた……と思う。
 血の気が下がる音が聞こえて、目の前が一瞬暗くなったから。

 固まってしまったわたしの代わりに、チコさんが慌てて周囲を見渡している。
 触覚がぱたぱた、せわしなく動いているのが目の端に映った。
 シルバーくんが眉根を寄せて、こちらに顔を向ける。

「ニノ?」
「……わ、ワニノコ。ワニノコだから、ニノちゃん、なの」
「お前、御三家にひねりないよな……ワニノコなら水タイプだし、別に雨でも平気だろ」
「でも! ヒビキからもらったばっかりで、まだレベル4なの……! さっきのとこにおいてきちゃったんだきっと……!!」

 そりゃあ、ワニノコだ。おっきくなればオーダイルだ。
 強くてかっこいいポケモンになる。

 でもそれは、おっきくなってからの話。
 ちびちゃんのワニノコなんて、一歩間違ったら一撃でぺっちゃんこだ。
 あああ、今頃どこかの野生ポケモンにがぶっとされてなければいいけど!!
 珍しいポケモンだからって、攫われたりしてませんように!!

「ちょっとわたし探してくる!!」
「バカ、鼻たらしてるヤツが雨ん中に出んな」
「たらしてないし!」
「バクフーン、お前見てろ」
「がう」
「……メガニウム、お前なにしなきゃならないか分かってんな」
「がにゅ」
「なんでシルバーくんの言うこと聞いてんのチコさん!」
「オレが見てくる。お前は大人しくそこに座ってろ」

 チコさんはわたしの前に立ちふさがって、いってらっしゃーい、と言わんばかりに触覚をパタパタふった。隣でシルバーくんのバクフーンが、まあここは言うこと聞いとけ、てな具合にうなづいて、背中から火を吹く。なに、君たちなんで連携してるの?!

「だって、傘ないって……!」
「これ以上ぬれたって大して変わんねえよ」
「でも!」
「いいか! お前ここで熱なんか出してみやがれ! そのまま放置してやるからな!」
「ええっ」
「オレの上着、それ以上ぬらすんじゃねえぞ!」
「あっ、ちょっと!」

 なんだか妙な捨て台詞を吐いて、黒いTシャツの背中が森の中に消えていく。

「ど、どうしよう……」

 今までよりももっとずっと静かになった洞窟の中で、わたしはもう一度身震いした。
 ひんやりした空気が、さっきまでよりもずっと冷たい。
 わたしは洞窟から首だけだして、薄暗い森をぐるりと見渡した。
 シルバーくんの後ろ姿は、もうとっくに見えなくなっている。

 いつもそう。
 わたしが我に返ると、シルバーくんはもういない。
 何回その背中を見送ったか、もう数えるのもめんどくさいぐらいだ。

 シルバーくんがいなくならないのは、りゅうのあなにいる時だけ。
 ああ、だからついつい、覗きに行っちゃうのかもしれないな。
 
「……わたし、なに考えてんだろ」

 わたしはぶんぶんと頭を振った。
 チコさんとバクフーンが不思議そうにこちらを覗いてくる。

「あ、ううん、なんでもないよ。大丈夫。ごめんねバクちゃん、君のマスターにご迷惑かけて」

 シルバーくんのバクフーンはまるで笑うみたいに目を細めた。
 シルバーくんだったらきっと、何を言いたいのか分かるんだろうな。

 わたしは首を引っ込めて、洞窟の床に座り込む。

 今しなきゃならないのは、シルバーくんとニノちゃんの無事を祈ることだ。

「いたぞ」
「わにゃ!」
「シルバーくん! ニノちゃん!」

 どれくらい経ったかよく分からない。
 けれどもはたと我に返ると、雨にご機嫌なニノちゃんが、シルバーくんの腕の中でぱたぱたとしっぽを振っていた。

 不機嫌そうなシルバーくんの赤い髪から、大粒の雨がぼたぼたと滴っている。
 あのつんつんに伸びた髪が真っ直ぐになって、ぺったりほっぺに張り付いて。なんだかちっちゃい子供みたいだ。

「ニノちゃんっ!」
「わにゃー!」
「いでっ」

 手を伸ばすと、ニノちゃんは満面の笑みで飛びついてきた。踏み台にされたシルバーくんはニノちゃんのしっぽで顔を打ったらしい。
 シルバーくんには悪いけど、ホントに元気そうだ。ああよかった! 何もなくて!!

「大丈夫? なにもなかった? ケガとかしてない? いじめられたりしなかった?」
「いじめてねえよ!!」
「いや、シルバーくんにじゃないよ。ありがとう」
「……別に」

 ふん、と鼻を鳴らして、シルバーくんはびしょびしょの前髪をかき上げた。ぴちゃん! と水滴が跳ね上がる。
 その仕草が妙に大人っぽくて、わたしは思わず口をつぐんだ。
 シルバーくんは時々、妙に大人っぽく見えることがある。
 そういう顔をされると、わたしはなんだか言葉が出なくなって、いつも困ってしまうのだ。

「あーくそ、冷てえ」
「ご、ごめんね……」
「タオルとかもってねーのかよ」
「すみませんありません。すでにビショビショのハンカチならあるけど」
「無意味だ」
「だよねー……」

 シルバーくんはため息を付いて、乾いた地面に腰を下ろした。わたしの隣にいたバクフーンがもぞりと動く。シルバーくんの横に、ピタっとくっついてしゃがみこんだ。

「……バクフーン」
「がう」

 分かってますよと言いたげに、バクフーンが目を細める。ちっ、とか舌打ちして、シルバーくんはまた髪をかき上げた。

「仕方ねえ」
「がう」
「ちょっ……なにしてんのよ!」
「このまま着てたらオレまで風邪引くだろ」

 微動だにしないバクフーンを見る限り、きっといつもの行動なんだと思うんだけど。
 シルバーくんは一瞬の躊躇いも見せずにがばーっと、黒いTシャツを脱いだ。
 とたんに顕になるのはちょっと血色の悪い真っ白な肌。……案外しっかりしてる感じの、細い身体。

 あの、一応わたしも、女子なんですけど!! 女の子の前で脱ぐとかどうなのよ!
 と言いたかった言葉が引っ込む。まじまじ見たら失礼だ、と思うのにどうしても気になる。だって、女子としてムカつくぐらいほっそい腰とかどうなの! イメージよりちゃんとしてる腕とか胸とか……ってわたし何見てるのよ!

「だ、だからって、いきなり脱ぐなー!!」
「別にいいだろ、女じゃあるまいし」
「そりゃ、そうだけど……」
「下はいてんだし」
「そっちまで脱いだら警察呼ぶよ」
「脱がねーよ!」

 ……気にしてるのわたしだけ?
 なんか腹がたつんですけど!

 脱いだTシャツをぎゅっとしぼり、わしわしと、濡れた頭と身体を拭いて、シルバーくんはひと心地ついたようにため息をついた。
 それからTシャツをもう一度しぼって、ぽいっと後ろに放り投げる。

「バクフーン、乾かせ」
「がう」

 まかしときー、とTシャツを、背中に乗っけるバクフーン。
 上手に火を避けてるってことはきっと、いつもこうやって乾かしてるってこと。
 でも、だからって、ねえ。
 しばらくそのままでいるつもり?

「……炎ポケモンでよかったね」
「こういう時はな」
「……そろそろ着たら?」
「生乾きは気持ち悪い」

 じゃなくって!
 ちょっとは気ィつかいなさいよ、ばかっ!

 わたしが思わず漏らしたため息に、シルバーくんは不思議そうな顔。
 チコさんとバクフーンが、笑ってるみたいな顔でこっちをみている。
 なんだかいたたまれなくなって(もう何度目だろう!)、わたしは彼に背を向けた。

 ああ、神様、お願いですから。
 早く雨を止めてください!