言えない、言わない。

「あら、まあ」
 非常に不満気な女性の声が響いて、アクロマは顔を上げた。午後九時過ぎ、女性ならずとも招かれぬ訪問にはやや遅く、礼儀知らずと呼ばねばならぬような時間だった。
 しかし、アクロマの部屋へと脚を踏み入れた女性――マコモは意に介さない。つかつかと床を進むとアクロマの休憩スペースにぞんざいに置かれているソファの右へと腰を下ろし、扇情的なほど白い脚を無造作に組んだ。
 マコモは本来、礼儀作法はきちんとしている女性なのだが、彼の部屋では別だと考えているのだ。ソファの右、そこは彼女の定位置であり、もはや彼女が時刻を一切気にかけないのも、こうして「居場所」があるからなのだった。
 デスク前の椅子の上からちらりとその姿を睥睨したアクロマは、大仰な溜息をつく。全くこの人と来たら、自分に対する一欠片の遠慮も持ちあわせてはいないらしい。
「どうなさいましたか」
「まだ頑張ってたんだー」
「……まだ21時ですよ」
「もう、とも言えると思わない?」
「貴女に人のことが言えますか」
「言えないわね」
 マコモは眉根を垂れてくすくすと笑う。彼女自身、ともすれば寝食を忘れる程に、己の研究や開発に没頭する質なのだ。こんな時間に現れたのも、まず、今の今まで研究に埋没していて、訪問しようと不意にひらめいたのがこんな時間だったのに違いないのだった。
「それで、どうなさいましたか」
 案外に辛抱強い青年は、呆れを瞳に浮かべてそう聞いた。基本的には人当たり良く、物腰も柔らかいアクロマだが、この、イッシュを代表する高名な発明家であり学者である女性に対して、いつも不遜でぞんざいな態度である。それは親しさの裏返しでもあるが、単純に面倒くさいだけでもあった。なにせアクロマとマコモの付き合いは、元をたどれば学生時代に端を発し、もうずいぶんと長いこと続いている腐れ縁のようなものなのだ。
 マコモはことり、と首をかしげた。むぅ、とムンナのような声を出して唇を尖らせる。彼女もまた、この後輩の前では女性らしさや学者らしさを取り繕うとはしない。年の割に幼い態度で(自分こそが年上だというのに!)、アクロマに相対するのである。
「特に用事はないです」
「はぁ」
 散々むうむう鳴いたあと、マコモはきっぱりとそう言った。わけもなくキリッとした目をして、アクロマの金の目を見上げる。
 アクロマは呆れを通り越し、苛立ちさえ浮かべて口を開いた。
「つまりなんです、ただわたくしの研究の邪魔をしにきたのですか」
「んー、そういうことになるのかな?」
「お帰りください」
「やだ」
 最近、クルーたちに密かに『夫婦漫才』と呼ばれていることなどつゆ知らず、アクロマとマコモは定例になりつつあるお決まりの会話を繰り返した。大体、マコモがアクロマのもとに遊びに来る時は用などないのである。アクロマも渋々ながら、それを認識しているので、この会話自体が無用なのだ。それでも、彼は繰り返さずにいられないのだった。
「せめて、研究の気分転換であるとか、行き詰った取っ掛かりを求めて、などの理由でしたら歓迎しますがね……無意味にいらっしゃられても困ります」
「よし、じゃあそうしよう」
「じゃあってなんですかじゃあって!」
「気分転換ってことで」
「……あのですねえ」
 アクロマが睨めつけても、マコモには何のダメージもないのだった。彼女はきゃらきゃらと女学生のように笑い、眩しそうに目を細めた。
「いいじゃないの、邪魔なんてしないわ」
「こうして話しかけられているだけでずいぶんと手が止まるのですが」
「話しかけてきたのはキミの方でしょう」
「貴女をここに置いておく理由がありませんからね。それを問うのは当然でしょう」
「お目こぼしは?」
「ありません」
「むぅ」
 小さく呟いて、マコモは頬を膨らませたが、アクロマはマコモが入ってきた時と同様の大きな溜息をこれ見よがしについて、マコモに背を向けた。
「用がないのでしたらわたくしは作業に戻りますので、邪魔をしないでください」
「はーい」
 マコモは素直に、まるで子供のように手を上げて返事をし、ソファから立ち上がって給湯室の方へと向かった。「構って」とマコモが言えば、アクロマは無精無精相手をするのだが、今日はその必要はないらしい。アクロマは少し意外そうに目を見張ったが、すぐにこれ幸いと己の手元に没頭した。

   *

 ややあって、唐突にふうわりと漂った芳香に、アクロマは顔を上げた。振り返るとマコモがカップをふたつもって、真後ろに佇んでいる。瞳だけ動かせば、マコモはにこりと微笑んで、右手のカップをアクロマに渡した。全身の力の抜けるような、得も言われぬ香りが湧き上がる。
「……アールグレイですか」
「あ、よくわかったね! 確かキミ、結構好きでしょう、これ」
「否定はしません。しかし、こんなものを置いてはいなかったと思いますが」
「マコモさんのポケットには色んな物がはいっているのですよ」
 右手で大きなポケットをぱんと叩き、マコモは満足気に胸を逸らした。マコモは別段、紅茶党というわけではない。ただ、コーヒーも紅茶も、目のさめるような香り高いものを特別好んだ。今日は三番街のデパートに新しく入った紅茶屋の、開店記念のティーパック詰め合わせに入っていたアールグレイなのだとひとしきり解説し、「ホントは茶葉から淹れたかったんだけどさすがにねぇ」とのたまってまた、ソファに腰を下ろした。
「……頂きます」
「はーい」
 上品な紅茶には不釣り合いな厚ぼったいマグカップの縁を、マコモの赤い唇がなぞる。思ったより熱かったのか顔をしかめ、ふうふうと唇を尖らせた。アクロマはぼんやりとそれを目線で追い、ようやくに我に返って、マグをデスクにゴトリと置いた。
 何の賄賂だろう、とマグを睨む。中身は琥珀のような美しい茶褐色の液体である。そこからたちのぼる茶気はマコモの好みらしい、香りの宝石のような芳しいものだ。アクロマもこの手の茶葉が嫌いではない。しかし、マコモが自らこうして、それなりに値の張る嗜好品を披露することは滅多にない。そレばかりか、「アクロマくんお茶淹れて! あ、コーヒーでもいいよ」などと言い出して、アクロマを辟易させるのが常態なのだ。
「……やっぱりなにかご用事があったのではありませんか?」
 思わず漏れた言葉に反応して、マコモがちらりとアクロマを見る。彼女は頭を傾けて、ぱちぱちと藍色の瞳を瞬かせた。
「……どうして?」
「貴女が茶を沸かすだなんて、ちょっとした天変地異の前触れとしか思えませんので」
「ひどい!」
 マコモはそう言ったが、口調は柔らかかった。紅茶をちびちびとすすり、はふはふと息をしながらアクロマに向き直る。
「たまにはいいでしょ?」
「……貴女の気まぐれはろくな事にならないと、長年の内に学習済みなのですよ! 一体何を見返りに要求したいのです?」
「だから、何もないったら」
 若干に気分を害して、マコモは声を尖らせた。
「キミはアタシをなんだと思ってるの」
「貴女が何の交換条件もなしに、こうしたことをしたことがかつてありましたか」
「だから、『たまには』って言ったじゃないの。見返りなんて求めてないったら」
「本当ですか?」
「ホントだったら! 言質取ったことにしていいから! 可愛くないなぁ、もう」
 拗ねた目がアクロマをじいと見据えた。それならいいです、とアクロマは気圧されたように呟き、マグを口元に引き寄せた。芳香を鼻孔いっぱいに吸い込み、目を閉じる。肩の力が抜けるのを感じ、アクロマは背もたれに全体重を預けた。ギィ、と軋む。
 マコモはまだ不満そうにアクロマを睨んでいたが、しばらくすると飽きて視線を逸らし、アクロマとは反対の壁に穿たれた小さな窓の向こうにじっと見入った。
 星を宿す瞳が、星を宿す空をただただ見つめているその横顔を、アクロマは片目だけを開けて見つめた。日に当たらない生活がもたらす白い肌、どこまでも長くなめらかな黒い髪、なだらかな鼻梁と顎から首への曲線、風が吹けば折れそうな細い首筋と長い下睫毛、赤い唇とその艶、前髪の落とす影とその奥で煌く瞳、その奥にまたたく知性。美しく、好もしい姿を持つ人だが、関わりあいが災いして、そうと告げたことは一度たりともない。
 それにしても、学生時代からちっとも見た目の変わらない人だ、とアクロマは感嘆する。何時まで経っても少女のようで、口さえ開かなければ、当人の年齢など、誰も正しく推測できないに違いない。感嘆に近い思いが湧き上がるが、やはり口には出さなかった。
 不意に、マコモの瞳がこちらを向いた。瞬間、アクロマは魅入られたように硬直し、息を飲んだ。どうしてか彼自身にも皆目見当がつかなかったが、急に、その横顔が「寂しげ」に見えたのである。その影はほんの一瞬、マコモの白い面を過ぎっただけだったが、目を離せなくなってしまった、とアクロマは呆然、そう考えた。そして、そんな顔を見てしまった、気づいてしまった自分に、深く動揺したのである。

   *

 どれほどそうして眺めていたか、不意に苦笑の気配に気がついて、アクロマは我に返った。眉を垂れ、マグを握りしめて、マコモが笑っている。
「アタシの顔にオイルでもついてる?」
「……いいえ。その、不躾ですみません」
「別にいいけど」
 コトン、マコモがマグを置いた。気づけば彼女のマグカップは、すっかり空になっている。重みの全く減らない自分のマグに咳払いして、アクロマは視線を逸らし、ぬるくなった陶器の縁に口をつけた。
 マコモは目を細めて楽しげに、アクロマのその仕草をのんびりと眺めていた。が、不意に微笑みを潜め、呟いた。
「……ただ、顔見に来たのよ。って言ったらキミは笑う?」
 小さく、掠れるようなささやき声だった。聞き取りそびれたアクロマは子供のように目を見開き、口元のマグを離して首をかしげる。
「すみません、何か?」
「ううん、ひとりごと」
 そう答えたマコモは少女めいた可憐な笑みを浮かべて、瞳を細めている。しかしそれこそが、マコモの「嘘つき顔」だと知っているアクロマは問いを打ち切った。こうなれば決して、彼女は口を割らないのだ。長い付き合いというのはやはり厄介だ、心独りごちる。付き合いの浅い人間が相手ならば、強引にでも話を聞き出そうと試みることができる。けれど、身近であり、長年の付き合いのある人間相手には、そうもいかない。こと、マコモという女性に関しては。
 ならば、とアクロマは想像を巡らせてみた。もしもこの人が先輩として人生に現れたのでなかったら、どうなっていただろう。黙っていればたおやかな美人である彼女の姿をそのまま受けて、美しく知性豊かな年上の女性として、目に映しただろうか。そして彼女の目に、後輩でない自分の姿はどう映るのだろう。ワーカホリックな年下の男、それとも、学究の徒として好意的に捉えられるか。年下だからと、プライヴェートでは歯牙にも掛けられないか。その方があり得るかもしれない。
 もしも彼女が先輩でなければ。自分が後輩でなければ。そうして出会ったなら。同じ学術の世界に生きる者として捉えたか。一度会ったことのある程度の、名と研究内容のみ知っている数多の科学者と同列となったか。それとも――。
「アクロマくん? アクロマくんったら! ねえちょっと!」
「……ああ、はい、なんでしょうか!」
 我に返り、己が妄想の世界に遊んでいたことに恥じらって、アクロマはその白い頬をうっすらと血色に染めた。マコモは不思議そうに首をかしげて、アクロマをのぞき込んでいる。
「アタシそろそろお暇するわ。いい気分転換になりました! ありがとね」
「……何もしていませんが?」
 マコモはくすくす、鈴の音のように笑い、本
気で疑問符を浮かべているアクロマの額をツンとつついた。
「あら、百面相してるキミは貴重なのよ。面白い物を見せてもらったわ」
「……はぁ」
 心底楽しげに彼女が笑うので、アクロマは諦めて息をついた。数瞬前の物憂げな面差しが消えるのに一役買ったというのなら、それで良いのだ、と言い聞かせる。
「それじゃあね」
「……送ります」
「珍しいなー」
「……わたくしにも気分転換が必要なのです」
「あらじゃあ、夜道の散歩はなかなかいいかもしれないわね」
 立ち上がったマコモを追って、アクロマも腰を上げ、軽く伸びをする。バキバキと鳴る骨に顔をしかめ、アクロマは首を振った。
「よーし、ついでにちょっと飲もう!」
「それは勘弁して下さい」
「気分転換になると思うよー?」
「……転換しすぎてそのまま寝てしまったら、元も子もありませんので」
「キミ、酔うと寝ちゃうもんねえ」

 連れ立って扉を潜り、先輩と後輩、ふたりの姿が消える。残されたマグの中身は、そろってすっかり空になっていた。