秘密

 とある金曜の夜のことである。
 コツコツと足早に、アクロマは冷たいリノリウムの廊下を歩いていた。目指すはつい先程出たばかりの研究室である。

「迂闊でしたね……端末の隣でしょうか」

 彼のつぶやきを聞く者はない。ビルの高所であることもあり、学生たちが去った後の研究室棟は、耳鳴りがするほど静かである。時折ジジジと、切れかけの蛍光灯が鳴るだけだ。

「確認したはずだというのに……気を抜きすぎましたか」

 つい1時間ほど前、アクロマは研究室で、気心の知れた同級生たちと新しい装置の図面を引いていた。その後、教授主催の飲み会があるというので皆で研究室を離れたのだが、そのとき、几帳面な彼にしては珍しくも、週末持ち帰りの課題資料をひとつ、置き去りにしてしまったのだ。
 それに気づいたのは教授お気に入りのダイナーに入る直前で、彼は急ぎ大学へと戻ってきたのである。

「すぐに見つかればいいのですが……」

 たどり着いた研究室の鍵を開け、蛍光灯のスイッチを入れる。パッと世界が白け、アクロマは薄い金色の瞳を眇めた。廊下の暗がりに慣れていたせいもあるが、彼の色素の薄い目は、元々光に弱いのだ。
 一瞬くらりとした頭を振って、アクロマは雑然とした研究室を見渡した。先ほどまで皆が座っていた卓の上にはない。乱雑に資料が積み重ねられている書架にもない。椅子の上、教授の机の上にもない。無論、床に落ちてもいない。それなら、複数のコンピューター端末が並んでいる机上には――あった。
 ほっと息をつくと、アクロマはファイルケースに大股で歩み寄った。A4サイズのそれはよくある淡青の、何の変哲もない事務用ファイルケースである。しかし、中に入っているものは今期の単位に大いに影響を及ぼすものだ。手に取り上げ、パラパラとめくる。配布された資料に漏れはなく、自分が書き込んだメモもそのままだ。
 安堵し、肩から下げていたカバンに資料を放り込むと、アクロマは踵を返した。
 しかし。

「……っ」

 アクロマは動きを止めた。蛍光灯のスイッチを切ろうと壁際に手を伸ばしたその時、奇妙な音が聞こえたのだ。外かと思い扉を開けたが、廊下には人っ子ひとり、ポケモン一匹いない。無論、研究室に人影はない。
 ……気のせいか。

「……っく」

 なかったことにして部屋を出ようとしたアクロマの耳にもう一度、音が届く。湿っぽく掠れた、耳障りで小さな音だ。ここしばらく、似たような音の聞き覚えはなかったが、それがなんの音なのか知らない、というほどのものでもない。必死に押し殺しているようなそれは、どう聞いても。

「…………泣き声?」

 どうしてこんなところで泣き声が。アクロマは訝しみ、首を傾げた。ぐるり、研究室を見回す。生き物の気配はない。
 彼はまず、コンピューター端末のスピーカーを疑った。しかし、端末のほとんどは電源が落ちており、外部接続用の端末はスピーカーのコードが抜いてあった。ならば誰かが置き忘れた携帯端末だろうか? アクロマは机の上に目をやったが、携帯端末はどこにもなかった。ありえなくはないだろうが、携帯端末から聞こえるすすり泣きなど、ホラー映画でもあるまいし馬鹿げている。もしや、ホラーといえばの幽霊か? ないとは言えないだろうが(イッシュには儘、幽霊のたぐいが出る)、今までに噂を耳にしたことはないし、いわくあり気な出来事が起こったとも聞かない。限りなくゼロに近いだろう。
 となれば、一番現実的な選択肢が残る。

 そう結論づけ、アクロマは目を閉じ、耳に神経を集中させた。視界が閉ざされると聴覚が際立ち、かすかな音がはっきりと、その耳に届く。書架の裏だ。研究室の奥、高い書架が3つ並んだその隙間から、しゃくりあげるような小さな泣き声が聞こえてくる。
 こういう時に物怖じしないのは、アクロマの長所である。彼は気負いなく書架の裏を覗いて進み、一番奥の書架の隙間で、ついに音源を見出した。
 しかし、である。アクロマはそこで、初めて躊躇した。

 そこには、小柄な女性の姿があった。覗くアクロマの姿にも気づいていない様子で、彼女は書架の隙間に座り込み、壁に背を預けてうつむいている。
 その人の、墨を流したような黒く長い髪が床を波うつのを、アクロマは見つめた。それから、白魚のような細い指先がラベンダー色のハンカチを握りしめて朱に染まり、その面を覆い隠しているのを。頼りない膝頭を、転がるミュールの先でむき出しになった細い足指を、そこに塗られた桜色のペティキュアを。
 件の泣き声は、その女性の喉から漏れていた。

 このまま立ち去れ。

 そう脳が警告した甲斐もなく、アクロマは呆然とするままに口を開いた。

「……マコモ先輩?」

 途端、まるでスパークのように弾かれて、その人は顔を上げた。濡れた瞳がこちらを向いて、アクロマは思わず怯む。硬直するアクロマに気がつくと、その人――マコモは目を細め、へにゃりと笑った。

「あ……ああ、アクロマくん。なんだ、びっくりした」
「……あの」
「なんでも、ないの。目が痛くて、ちょっと」

 下手な嘘を。
 喉元まで出掛かった言葉を飲み込み、アクロマは溜息をついた。何をしているんですか、と見え透いた問いを投げ、手を差し伸べる。
 マコモは困ったように微笑んで、その手をそっと押し戻した。

「……研究室、閉めますよ」
「アタシが、施錠して、帰るわ」
「教授に、施錠して戻ってくるように言われています」
「ああ、飲み会だっけ」
「ええ。先輩は?」
「アタシは、欠席。……ねえ、見逃して、もらえない?」
「駄目です」
「……そっ、か」

 どうしようかな。そう呟いてマコモは微かに俯いた。揺れた黒髪がサラリと落ちて、目元を隠す。奥まったその目尻から、ぽろりと水が滴った。アクロマは黙り、視界の中心で、俯いた人の頬を眺める。

 口元こそ微笑んではいるものの、マコモの頬には、水滴が伝った筋が幾つも残っていた。アクロマは女性の化粧に明るくないが、目の周りの黒いラインが崩れていた今の姿は、とても見られたものではないし、見せたいものでもないだろうということは分かる。
 けれどその中央で、黒曜石めいた黒い瞳が時折、菫色にきらめいてアクロマの目を奪った。

 ――何があったのか、とは聞けなかった。アクロマにとって彼女はとりわけ親しい先輩ではあったが、そこまで踏み入って問いかけることができるような仲ではないのだ。同じ研究室の先輩後輩、という枠を出たことはなく、今のところは出るつもりもない。日々論議し、振り回され、時たま論文を添削され、時々おまけのように食事をする、その程度の関係である。論議が白熱したせいで同じ朝を迎えたことはあるが、幸か不幸か、色めいた事情が伴ったこともない。
 そもそも、マコモは人が内面に踏み込んでくることを厭い、はねのける節がある。一人、誰もいない研究室に現れて、暗がりで泣きじゃくるほどにつらい何かがあったとしても、友人たちも、後輩も、誰も頼ろうとしないのも、その現れと言えるだろう。アクロマが戻ってこなければ彼女はきっと、明日には何もなかったような笑顔で研究室に現れて、いつも通りに振舞ったに違いない。そして誰も何も気づかずに、彼女はひっそり心を隠して、いつもの様に笑うのだ……。

 アクロマは溜息をついた。ジーンズのポケットに突き刺してあった携帯端末を取り出し、短文を送信する。それからカバンを下ろして、マコモの前に座り込んだ。細い肩が揺れ、菫を宿した黒い瞳が、ぱちくりと開かれる。薄金のアクロマの瞳を写して、静かにまたたいた。

「……アクロマくん?」
「僕はここにいます」
「…………うん?」
「でも、貴女を見ていないことにします」

 マコモは顔を上げ、子どもじみた仕草で首をかしげた。さらりと黒い髪が揺れ、花の形のピンに引っかかって止まる。アクロマはそれを見ず、言葉を続けた。

 マコモが時にひどく頑なになることを、アクロマは身を持って知っている。きっと、アクロマが何を言っても、彼女はここを去りたがらないだろうし、何が悲しいのかを口にする事もない。アクロマが彼女に影響を与えることなんて、できやしないのだ。
 ――それならば、好きにすればいい。アクロマは半ば自棄になってそう思った。一人で泣きたいなんて、余程のことがあったのだろう。それでも、誰も頼りたくないというのなら、そうすればいい。
 でも、ただ好きにさせるのも口惜しい。ならば、「いないこと」にしてここにいて、最後まで見届けてやる。それが、ささやかな意趣返しだ。

「気がすんだら声を掛けてください。施錠します」
「……きみ、飲み会は?」
「今、二次会から行きますと連絡しました。先生のことですから、三次会くらいまでやるでしょう」
「そうねえ……」
「……ですから」

 お好きになさってください、でも、ここを動くつもりはありません。
 アクロマの宣言にマコモは黙りこみ、それからくしゃりと、心の底から困ったように笑った。

「……ありがと」
「礼を言われるようなことはしていません」
「そうかしら……でも、うん、もう大丈夫、かな」
「…………本当ですか?」
「うん、はなししてたら、なんかちょっと、落ち着いた」
「そうですか」
「だからね、……ありがと」

 力なく微笑みながら、マコモは脱げたミュールをひっかけ、スカートの裾を払った。やれやれと、自分とマコモの鞄を引き寄せた面倒見の良い後輩の姿に、苦笑を浮かべる。

「ねえ、アクロマくん」
「なんです」
「お化粧直してくるから、二次会まで、お茶付き合って。おごってあげる」
「……それは構いませんが」
「やあね、お化粧直してそのまま逃げ出したりしないわよ」
「…………疑ってはいませんよ」
「ふふふ、顔に出てたよ」

 じゃ、カバン持ってて。華奢なカバンをあらためて押し付けて、マコモは立ち上がる。足がしびれていたのか一瞬ふらりとして、共に立ち上がったアクロマに腕をとられた。

「いたた……」
「どれだけここにいたんです」
「……ないしょ」

 口元で人差し指を立て、マコモはうふふ、とこどもっぽい笑みをこぼした。いつものしぐさがかえって痛々しく、アクロマは嘆息する。
 泣いてわめけばいいのに。アクロマはふいにそう思った。女性のヒステリーなど彼にとっては『最悪』以外の何物でもないが、それでも、こうも無理に微笑まれるより、よっぽどましなのではないか。童顔で小柄な、ともすればアクロマよりも年下に見える少女のような姿の奥底に、重苦しい感情が積もりに積もった時、この人はいったいどうするのだろう。どうなるのだろう。
 一見冷静と見せ掛けて、その実感情を内に溜めることをしないアクロマには、その時がひどく恐ろしいものに思われた。この人は少しずつ溜め込んで、いつか落とした試験管のように、脆く壊れてしまいはしないか。日頃の些細なわがままで、発散しきれるものだろうか。誰かがガス抜きをしてやる必要があるのではないか。彼女の変化に気づいた誰かが――
 ……気づいた、誰か?

「……先輩は、どうして笑おうとするんです?」

 危うい思想に至りかけ、慌てて思考を閉ざした途端つい漏れた問いに、アクロマはしまったと口を押さえた。しかし、扉を開きかけていたマコモのこたえはなかった。

「その、……そんな時ぐらい、誰かを頼っても、バチは当たらないと思いますが」
「……ねえ、アクロマくん」

 慌てて紡いだため息混じりの言い訳に、マコモの声が返る。扉を見やると、彼女はこちらを振り返り、じっとアクロマを見ていた。

「あんまりやさしいのは、だめよ?」

 マコモの面差しに、アクロマは言葉を飲んだ。衝撃に打ちのめされたように、頭が真っ白になる。
 口角をもたげ彼を見つめたマコモは、アクロマの知らない女の顔で笑っていたのだ。

 ――そして、硬直するアクロマの前で、パタンと扉は閉められた。