「あらまあ、どうしましょ、困っちゃったわ。ねえ、コトネ、お風呂のお湯が出なくなっちゃった」
ママがそう言ったのが、今から1時間前。水道屋さんが明日来てくれることになったのが、10分前。
仕方がないから、ヒビキの家に貰い風呂をしにいくことになった。
「こーんばーんはー」
「ああ、コトネちゃん。今晩は」
「お久しぶりです!」
「久しぶりだね。元気そうだ」
「はい、元気すぎるくらい! あ、そうだ、ママからこれ。コロッケです!」
「おお、いい匂いだ。ヒビキが喜ぶよ。ありがとうって言っておいて」
「もちろん!」
夜8時。
チャイムを鳴らすと、ヒビキのお父さんがドアを開けてくれた。ヒビキとお父さんは目元がよく似てる。隣に並ぶと間違いなく親子だ。……ヒビキも将来、腰痛もちになったりするのかなあ。
久しぶりにお邪魔した気がするんだけど、ヒビキの家は全然変わってない。
まあ、うちだって、わたしのポケモンが増えたくらいしか変わってないけどね。
「あれ? ヒビキは?」
見回したリビングに、ヒビキの姿はなかった。何時もならこのくらいの時間には、テレビを見てるんだけどな。どうしたんだろう?
わたしが首をかしげると、ヒビキのお父さんはお茶の入ったマグカップを差し出しながら言った。
「自分の部屋だよ。友達とゲームするんだって張り切って」
「友達?」
ワカバには、わたしたちくらいの歳の子供はあまり多くない。だから、わたしたちは小さい頃からお互い以外に、あまり友達の多くない生活を送ってきた。だから、わたしはヒビキの家に、ヒビキはわたしの家に、小さい頃はよく遊びに行った。とはいえ、その回数も段々減ってきて、最近じゃ「お久しぶりです!」なんて言うくらいだ。つまり、友達が遊びに来るだなんて、すっごく珍しい、ってことね。
わたしが旅先で友達をたくさん作ったみたいに、ヒビキにも新しい友達ができたのかな。
「この時間ってことはお泊りですか?」
「そう。さっき庭でバーベキューをしていたら通りかかったから、ヒビキが声を掛けたんだ」
「通りかかった?」
「そうそう、チャンピオンロードの方から来て、ヨシノに行くところだったみたいでね」
ってことはトレーナーさんか。
しかも、チャンピオンロードに行けるレベルの。
どんな人だろう? そう考え始めたわたしに、二つの声が同時に掛かった。
「今、その子がお風呂に入ってるから、ちょっと待っててもらえるかい? お湯足して入って構わないから」
「お湯、お借りしました」
おや、とわたしが思うよりも早く。
「早かったね。ヒビキなら上で準備してるよ」
「どうも……ってコトネ?」
白いタオルにくるまった赤い頭がひょっこりと、ヒビキのお父さんの後ろからこちらを覗く。
見覚えのない白いTシャツと、多分ヒビキのハーフパンツ。
お風呂のある廊下に繋がっているはずの扉から現れたのは、シルバーくんだった。
完全な不意打ちに、わたしは驚いた猫みたいに固まる。だって、あんまりにも「ありえない!」状態だったんだもの。
「え……えええ?!」
「おや、コトネちゃんとも友達かい?」
「いえ、友達じゃないです」
なんだと?
きっぱり即答されて、わたしは思わず息を止めた。
頭の中が真っ白になる。ちょっとどういう事ですか!
「こいつはオレの、ポケモン勝負のライバルです」
反論しようとした瞬間に、更にどキッパリ。
なんだか泣きそうになっていた涙腺が、ぴたっと動きを止めた。
「ああ、なるほど。コトネちゃんは強いらしいからなあ。確かヒビキも勝ったことないんじゃないか」
「わ、わたしはチャンピオンに勝ったんですもん! そう簡単に負けません!」
「次こそ倒してやるからな! 首根っこ洗って待ってろ!!」
「洗ってんのはそっちでしょ!」
ふふんと背をそらし、腰に手を当てて、びしっと指をさすシルバーくん。
首からタオルを引っ掛けた完全に「おやすみスタイル」なのに、偉そうに見えるのはどうしたことか。
タオルを抱きしめて叫ぶわたしの方が、ランキングは絶対に上なのに……悔しいような、そうでもないような。
「おーいシルバー? 上がったんなら早くこいよー、スマブラやろうぜスマブラ!」
「なんだそれ」
「あー、えーと、キャラクターがいっぱい出てきてやる格ゲーみたいなやつ」
「オレ、そういうのやったことないぞ」
「大丈夫、お前瞬発力あるっぽいし! すぐ覚えるって! やってみりゃ分かるし! いいからやろうぜスマブラ!!」
上からヒビキの声が聞こえて、シルバーくんはぱっと階段の方に駆け出した。
足元気をつけてね、とヒビキのお父さんが言って、はい、と返事が聞こえて。タンタンタン、って軽やかな足音が聞こえたと思ったら、それっきりだった。
対戦なんてめったにできないから、ヒビキがはしゃぐのは分かるけど。……分かるけど!
目に見えてふてくされたわたしに、ヒビキのお父さんは苦笑する。
「コトネちゃんも入っておいで。下のテレビで遊ぶようにヒビキに言うから。そしたら、帰る前にちょっと遊んでいけるだろう?」
ライバルなら、ポケモン勝負以外でも、楽しく対戦できるんじゃないかな?
なんだか何もかも見透かされたみたいにそう言われて、わたしは思わず赤くなる。
――ポケモンで、どれだけ強くなったって。こういう所はやっぱり、おとなには敵わない。悔しいけど。
「お風呂の場所は忘れてないかい」
「大丈夫です! お借りしますー」
「走って転ばないようにね」
「はーい」
こうなったら、女子らしからぬ烏の行水っぷりを見せつけてやる!
勝手知ったるヒビキの家の廊下をぱたぱたと走りながら、わたしは右手で小さく拳を握った。