「オレ、お前のライバルやめる。で、来月から海外に行くことにした」
「……へ?!」
ぼた。
わたしは思わず、だっこしていたエーフィ――名前はジンジャー、女の子だ――をおっことしてしまった。
ジンジャーは不機嫌に鳴いて、ぺし、とわたしの脚を叩く。だけどわたしはそれどころじゃなかった。ジンジャーに謝るのもすっかり忘れて、アホみたいにおっきい声をあげる。
「な、なんで?!」
わたしのバカでっかい声は、ぐわんぐわんと洞窟、つまりりゅうのあなに反響した。シルバーくんとシルバーくんのバクフーンは顔をしかめて、耳を押さえる。
バクフーン、なんだかマスターに似てきたんじゃない? なんてことを一瞬考えたのだけれども、それはいわゆる「逃避」だ。
だってあんまりにもいきなりだった。そんな素振り、一度だって見せなかったのに。突然「来月」だなんて言われても。
「なんでって……夢あきらめんのは誰だって悔しいだろ」
「そ、それはわかる、けど……」
「オレの夢は最強のトレーナーだからな。お前とかレッドに固執してても、強くなんねーって気がついた」
だから、知ってるヤツのいないところで修行して、強くなることにした。
と、彼はあっけらかんと言った。なんかもう、「昨日の夜ラーメン食った」なんて言うのと同じくらいにさらっと。
「海の向こうにもポケモンやトレーナーはいるからな」
「そ、それもそうだろうけど……」
「クチバの……マチスだったか、あいつ向こうから来たって言ってたろ」
「確かに、マチスさんのピカチュウは、英語しかワカンナイって、言ってた、けど……」
最近じゃ、GTSで、海の向こうのトレーナーさんとポケモンを交換したり、ちょっとしたゲームを楽しんだりなんてことも出来るようになった。わたしも、全然読めない言葉の国の人から、ポケモンをもらったことがある。そのおかげで、カントーやジョウトだけじゃない、遠い世界でも、たくさんの人がいろんな気持ちで、戦ったり育てたり、旅をしたりしているってことを知った。
海の向こうにはもしかしたら、すごく珍しいポケモンがいるかも知れないし、すごく強い――そう、レッドさんもわたしも、歯も立たないような――トレーナーやチャンピオンが、いるのかも知れない。向こうには向こうの、有名な博士がいたりするのかもしれないし、ロケット団みたいな困った組織もあったりするのかもしれない。
言葉も分からない、知り合いもいない。そんな場所でのバトルは大変だろうし、辛いことやめんどくさいこともたくさんあるだろう。ポケモンセンターに行くだけで一苦労なのかもしれない。だけど、それはきっとシルバーくんを今よりずっと強くするだろうし、ポケモンたちも鍛えられるに違いないのだ。
そう、それはすごいこと。
そんな決断できちゃうなんて、ものすごいことだ。
応援してあげなきゃ。
うんと強くなって戻ってきて、わたしと勝負しなさいよって、それまでにはわたしももっと強くなってるんだからねって、言わなきゃいけない。
わたしはシルバーくんのライバルなんだから、そう言わなきゃいけないのに。
口からはなんにもでてこなかった。
ただ、そうしたらどうなるんだろうって、ぼんやり考えただけだった。
月曜日も火曜日も水曜日も木曜日も、シルバーくんはいなくなるのだ。つまり、セキエイ高原に行ったってバトルはできなくなるわけで、りゅうのあなに来ても、その姿が見られなくなるってことだ。
イブキさんが「ナマイキ君? ああ、うどん食ってたわよさっきまで」とか言うこともなくなるだろうし、グリーンさんが「あいつ筋は悪くねえんだけどなー」なんて話してくれることもなくなるのだろう。ヒビキが「バトルフロンティアで見かけたよー、あいつのバクフーン、なんかカッコよくなったよなあ!」なんておしゃべりすることもなくなるわけで、ウツギ博士が、「シルバーくん、だっけ? いやあ、あんなに立派に育てちゃうとは思わなかったなあ。元気にしてるかい? 彼もポケモンも」なんてわたしに聞いてくることもなくなるのだ。
わたしの毎日から「シルバーくん」が抜け落ちて、なくなってしまう。
――ぎゅう、って胸が痛くなった。
思わず、シルバーくんをじっと見てしまう。
炎みたいな赤い髪を、きゅっとつり上がった、強い光の赤い瞳を。段々抜かれそうな身長の上でぴょこんって跳ねてる前髪とか、もっとちゃんとご飯食べようよって言いたくなっちゃう青白い肌とか、ほっそい肩とかを。
なんだかもう、毎週どこかで見かけるのが、当たり前になってた、その姿を。
わたしは思わず胸を抑える。心臓が、なにかに握りつぶされそうになってるみたいに痛い。
どうしよう、いたい。
いたい。
「……っおい、コトネ?!」
「はいっ?」
「お前、何泣いてんだよ!?」
「え……ええ?!」
声を掛けられてはっと我に返って、そして仰天した。
シルバーくんの言葉の通り、わたしはぼろぼろ、泣いていたのだ。自分で自分に気が付かなかった。
「ご、ごめん、び、びっくりし……た」
「はあ?! なんでびっくりして泣くんだよ?!」
「そ、そんなの分かんないわよ!」
思わず飛び出したのはちっちゃな嘘。
違う、ホントは、分かってる。
ぎゅっと痛かったのは悲しかったから。
ぎゅうぎゅう締め付けてきたのは、さびしい気持ち。
行かないで。ここにいてよ。わたしを追いかけてきてくれるのは、君だけなんだよ?
君がいなくなったら、わたしはどうしたらいいの。誰が追いかけてきてくれるの。
誰も追いかけてきてくれないのに、バトルの腕を磨いて、それで何がどうなるって言うの。
「うーっ……」
言いたい言葉は言えなくて、どうしようもなくて苦しくて。涙は本当に止まらなくなってしまった。
シルバーくんはぎょっとしたみたいに目を見開いて、おろおろしてる。シルバーくんのニューラが、シルバーくんのポケットからハンカチを出してきたのが見えたけど、その時にはもう、わたしはぐしゃぐしゃのべしゃべしゃだった。きっと、今のわたしはブサイク極まりない事になっているに違いない。
ああ、できれば見ないで欲しいんですけど、なんて願いはあっという間に却下され、気がついたらわたしは思いっきりごしごしと、シルバーくんのハンカチで顔を吹かれていた。……ちょっと痛い。
「っ……バカ! 何泣いてんだよ!!」
「だっ……」
「アホか、気づけ!! 今日は4月1日だ!!」
「……ふえ」
「エイプリルフールだろ!!」
「……う、ん?」
「ガキがひとりでいきなり海越えるわけねぇだろ! どっから出んだその金は!!」
「……え?」
ものすごい焦った声に、きょとんとしてしまう。
エイプリルフール? うん、知ってるよ。それがなんなのかも、今日が何日なのかも。
エイプリルフールって、つまり四月馬鹿の日で、つきっぱなしにしなければ、人に嘘ついても怒られない日で……
「……うそ、なの?」
「いやお前、どう聞いても嘘だろ」
あっさり。それこそ、「今朝の味噌汁はあさりだった」とかそのぐらいにあっさり。
あんまりにもあっさり過ぎて、「嘘でした」ってのが嘘なんじゃないかと思えてきた。
わたしが馬鹿みたいに泣くから、嘘ついてるんじゃないの? ホントはどっかいっちゃうつもりなんじゃないの?
「……や、だって、シルバーくん、なら、有り得るかと」
「お前はオレをなんだと思ってんだよ」
「……妙に行動力あるから、もしかしたらって」
「流石に国外はねえよ! ……親がいねえから、パスポートが作れねえ。っていうか妙ってなんだよ!!」
流れる水みたいに勢い良く言って、シルバー君は顔をしかめた。
ほんとに? ほんとにちゃんと、うそなの?
「うそ、なの……?」
「当たり前だろ! ってなんで余計に泣くんだよお前は!!」
「だっ……よかっ……」
「ちゃんとしゃべれ! わけわかんねえ!!」
わたしにだってわけなんかわかんないよ、でも涙が止まらないんだ。
よかった、嘘でよかった。ほんとによかった。
いつか大人になったなら、シルバーくんは本当に、海の向こうに行くのかもしれない。
でもね、お願い、まだもうしばらくは。
わたしのライバルでいてください。