さようならの解放

 カラカラと、小さな石ころが転がってきたのを、チェレンは右足で蹴り飛ばした。ずずん、小さな地響きが遠くで聞こえる。足元が微かに揺れた。チェレンはそれも無視して、階段を駆け上がる。

 壮麗な宮殿はたった今、地に沈もうとしていた。
 チェレンとて一度は、城を脱出したのだ。けれども、集うジムリーダーやチャンピオンの中に、自分の幼なじみと、彼女とたった今戦ったはずの青年の姿がないことに気がついて、チェレンは止める周囲を無視し、城の中へと踵を返した。

『トウコがいない! あのNってやつも!』
『なんだって?! もう時間がないよ!』
『彼らには伝説のポケモンが付いている。おそらく大丈夫だろう……おい!』
『……あんな精神状態の人間が、大丈夫だとは、ぼくには思えません!』

 チェレンはこの宮殿が何のために存在し、なぜ崩れ落ちようとしているのかは知らない。ただ、この城はプラズマ団の根城であり、彼が四天王に挑み、チャンピオンの元へと走っているその間に現れ、トウコが戦いに勝利したがために崩壊を始めたのだということを、事実として知っているだけだ。

『柱を失ったのです。柱のない建造物が崩れるのは当然では?』

 謎の三人組に、確保したゲーチスを奪われた、その間際の言葉だ。あの男は、どちらを『柱』と言ったのか。ただ、チェレンは、「この男のためではないだろう」と思った。自分の息子を「用意した」と道具のように扱い、あまつさえ「バケモノ」だと非難した男だ。本当の親子なのかどうかも疑わしい。これが『柱』では、組織は精神的にまとまるわけがない。

 ならば、とチェレンは、あの緑色の髪の男を思い出す。カラクサタウンでトウコとふたりで遭遇した、「N」のことを。早口で胡散臭い青年だった。
 だけれども、悪人には思えなかったのだ。それはトウコも同じだったようで、彼女はあの青年を、ずっと気にかけていた。彼の方もまたトウコのことを気にかけていたのだ、と知ったのは、青年がゼクロムを手に入れた時だ。
 あの時、Nと何らかの対話をしたらしいトウコは、青年が飛び去った空をずっと見つめていた。『同じになれ、って言われたわ』そう呟いたトウコを、チェレンは確かに覚えている。

 ぱらり、天井の一部が剥がれ落ち、その粉がチェレンに降りかかる。チェレンはメガネを腕で庇い、立ち止まらずに走った。こんな時、視力が悪い己が煩わしくてならない。ずずずん、今度は大きく床が揺れた。脚を取られて立ち止まる。もう時間がない。
 揺れがおさまったのを見計らい、チェレンは再び、ヒビの入った床を蹴った。粉塵で濁った水を横目に、欠けた階段を二段飛ばしに駆け上がる。最後の対決が行われた「謁見の間」は、すぐそこだ。

「トウコ!! N! まだいるか?!」

 叫びながら、最後の階段を上がり切る。すでに、チェレン以外の人影はない。プラズマ団の団員たちも皆、脱出したようだ。

「いたら返事して!」

 トウコもあのNという青年も、もうすでに脱出したかもしれない。それならそれでいいんだけど、そう思いながらチェレンは「謁見の間」へと再び踏み込んだ。

 長い回廊には、誰も居なかった。

 あの青年が、トウコを連れていってしまったのだろうか。
 チェレンは不意にそう思い、息を飲んで立ち尽くした。

 トウコに固執していた、N。
 Nを気にかけていた、トウコ。
 伝説の双竜、双子の英雄。

 トウコとNは「敵同志」だったはずだ。だけれども、気に掛け合う二人が共にあったところでなんの不自然もない。
 でもトウコが、彼についていくとも思えない。チェレンはそう考えなおす。Nが悪人でなかったとしても、プラズマ団の「王」であったという事実は変わらないし、トウコが彼を撃ち破ったことも、また、事実なのだ。

 とりあえずこの部屋を確認しよう。そして、確実にいないなら、彼女はもう脱出した、ということだ。自分も脱出しなければならない。そう考えて、チェレンは謁見の間を改めて見回した。
 どこよりも豪奢だった広間は、その名残をあちこちにとどめながら、他の場所同様、崩壊の一途をたどっていた。美しい装飾は剥がれ落ち、敷き詰められた石の隙間からは土煙が上がっている。柱も、そこかしこがひび割れて崩れかけていた。
 無残だな、とチェレンは呟く。
 しかし、ゼクロムが開けた大穴のおかげで、室内はひどく明るかった。粉塵のせいで、座る者のない王座の空虚に向けて伸びている光の軌跡がまっすぐに、部屋を貫いているのがよく見える。

 そうしてそこに、チェレンはひとりの影をみた。
 すっくと立って、空の隙間を見上げている。

 トウコだった。

 一瞬、彼女の背に白い翼が生えているように錯覚し、チェレンは脚を止めた。しかしすぐにそれはレシラムの翼なのだと気づく。彼女は光の中、後ろに白いドラゴンを従えて、光の注ぐ先をただじっと見つめていた。
 ――神々しい。チェレンはそう感じ、慌てて頭を左右に振った。目の前に居るのは確かに英雄かもしれないが、それ以前に自分の幼なじみだ。

「トウコ」

 呼びかけは、どこか遠慮がちになってしまった。それでも、彼女はチェレンの声に、弾かれたように振り返った。そうして初めて気づいたように、崩壊しつつある謁見の間をぐるりと見渡した。

「あ、チェレン」
「あ、じゃないよ。脱出しないと」
「うん。そうだね」

 トウコは笑い、けれどもまた、後ろ髪を引かれるように、空を見上げた。雲ひとつない晴れ渡った空には、一点の染みもない。

「Nは?」
「行っちゃったよ」

 焦れたチェレンの言葉に、トウコはそう返した。チェレンは言葉を切り、トウコの周囲をざっと見渡した。トウコ以外に人影はない。
 トウコがまだ泣いているのではないか、とチェレンは一瞬身構えたが、トウコの海のような青い目は、すっかり乾いて、硝子のようだった。

「トウコ」
「サヨナラ、って言われちゃった」

 トウコは崩れた壁の向こうの、真っ青な空を見つめていた。彼はここから飛んでいったのだろうか。リュウラセンの塔の上から、ゼクロムで飛び立ったあの時のように。

「……他に何か言われた?」
「うーん……あのね、あたしのジャローダが。ツタージャだった時、会ったでしょ」
「カラクサタウン?」
「そう。そこで、『話していた』って言ったでしょ」
「言ってた」
「あれね、あたしのことが好きだって一緒にいたいって、そう言ってくれてたんだって」

 トウコはチェレンに向き直った。

「あのね、初めてだったんだってさ。人のことが好きだっていう、ポケモンに出会ったの」

 トウコの瞳に、薄い膜が張る。
 それはみるみるうちに膨らんで、瞳の端から珠になり、ほろり、ほろりと頬へ落ちた。

「あたしびっくりして。だって、人のことが好きなポケモンの方が、あたしたちの周りには多いじゃない? だからあたしもそれが当たり前だってて思って、生きてきたんだけど。そうじゃない人がこの世界にいたなんて」
「あの人さあ、ポケモンとだけ、しかも傷付いたポケモンとだけ、ずっと一緒にいたんだって。いたっていうか、いさせられたんだって」
「だから、ポケモンのことは人間よりずっと分かるって、言ってて。だから、あんなこと考えたんだよ。傷つく子たちがこの世界から居なくなって欲しいって、あの人、あの人本気で」

 トウコの涙は大粒の雨のようになり、ぼたぼたと、粉塵で汚れた床に落ちた。チェレンは声もなくそれを見つめ、言葉を探そうと宙を睨む。

「……本気で、夢、見てたんだよ。あたし、それを壊しちゃったんだ」
「……だけど、トウコだって、ポケモンと一緒にいたいって思ってるから、だろう」
「思ってるよ。思ってるけど。あの人ほど強く思ってたかどうか分からない。あたしは別に、そんなに一生懸命な夢なんて、なにも持ってないのに、一生懸命な夢を壊しちゃったんだ」
「トウコ」
「自分のしたこと、悪いなんては思わない。だけど、あの人に謝りたいって思った。せめてあたしが、あの人くらい、何か夢を懸けて挑んだんだったら、きっと良かったのに。謝りたかったのに」

 ああ、とチェレンは呟いた。この強情で優しい幼なじみはきっと、そう思ったのに、なにも言えなかったのだ。

「なにも言えなかった?」
「……そうよ。あたしに、彼の夢潰して置いて自分にはなんもない、そんなあたしに、なにが言えたって言うの。謝ったって空っぽだわ。だったらどうしてって言われるのがオチじゃない」

 それなのに、トウコは呟いた。

「あの人言ったんだ、あたしに。『夢を持て!』って。『そのために、信じる道を行け!』って」

トウコの顔が、くしゃりと歪んだ。

「どうしてそんなこといえるの。あたしたった今、夢、潰したのに。あの人の夢、なくしてしまったのに。どうして」
「トウコ」
「あたしだったら言えない。あんなこと言えない」
「トウコ」
「だって、どうして」

 トウコの喉から、しぼり出すような嗚咽が漏れた。それは次第に大きくなり、チェレンが腕を差し出すと、トウコはそこにしがみついて、こらえきれなくなったような泣き声を上げた。
 チェレンは仕方無しに、トウコの髪をなでてやる。幼い頃、泣きじゃくるトウコやベルにそうしていたように。

 チェレンはNの事をよく知らない。カラクサタウンで会い、リュウラセンの塔ですれ違い、そしてこの城にきて遭遇した、それだけだ。プラズマ団の「王」でゼクロムを「トモダチ」だという、怪しい男だ、と思っている。
 けれども、彼と全力で勝負をしたチャンピオンが彼の夢の強さを認めていたことを、チェレンは知っている。トウコが彼を気にかけていて、その上で真剣に彼に対峙したことも。ゲーチスという男に道具のように育てられた、純粋培養の「王」だということも、聞いてしまった。
 悪人ならば、トウコは彼のことなど気にもとめなかったに違いない。確かに彼は本気で、ポケモンの解放を望んでいたのだろう。
 そういう意味では、あのゲーチスという男の育て方は、成功しすぎたのではないだろうか。

「トウコ、トウコはあいつの夢を潰したけど」

 トウコの涙を見てみないふりをしながら、チェレンは言葉を続けた。

「でも同時に、あいつを解放したんだ」

 きっとNは、純粋すぎて、優しすぎて、それゆえに歪んでしまった人だったのだろう。

「――Nは、ゲーチスと戦う前に、トウコの名前を呼んだだろ」

 トウコの嗚咽がぴたりと止まった。
 そう、確かにあの瞬間、トウコに敗れたことで己の夢を失い、そして父であるはずの男に罵倒され、誰よりも傷ついていたはずの彼だけが、ゲーチスに襲いかかられたトウコの名を呼び、そしてトウコのために動いたのだ。トウコの後ろにいた、トウコの味方であるチェレンやチャンピオンではなく、彼だけが。

「……そして、トウコのポケモンを回復してくれただろ」

 Nは、傷付いた己を省みるのではなく、目の前で窮地に立ったトウコのために、トウコの名前を呼んだのだ。あれほど切迫した声を、彼も出すことができるのか。そうチェレンが驚いたほどに、彼はゲーチス越しに、トウコを案じていた。
 おそらく、心から。

「あれはきっと、トウコに解放して欲しかったからだ、とぼくは思う。だって、トウコがゲーチスを倒して、その関係が絶たれたから、あいつはここから飛んでいった。あいつはきっと、トウコに負けて初めて、自由になったんだ」

 トウコが顔を上げたから、チェレンは微笑む。

「だってそうだろ、トウコが負けてたら、あいつは今もゲーチスの下で、プラズマ団の『王』をやってたはずだ」

 それは果たして、あいつが本当に望んだ結末だったかな? チェレンは呟き、トウコはハッとしてまばたきした。

「ゲーチスがいたらどっちみち、ポケモンの本当の解放なんてなかったさ。あいつが自分でゲーチスを憎んで、倒さない限りね。そういうことができるヤツだったかどうかは、ぼくは知らないよ」

 だから。チェレンは笑いかけ、トウコの体を離して立ち上がった。しゃがみ込んだままのトウコに手を差し出す。

「あいつはきっと、自分が倒されることで、トウコに夢を託したんだよ。ま、それを受け入れるかどうかはトウコ次第だけどね」
「あたしに……夢……」
「とりあえず、今トウコがしなきゃいけないことは、なんなわけ? ここで泣いてることだけは、違うんじゃないの」

 最後はすこし意地悪に。チェレンは言葉を切り、立ち上がったトウコの背を押した。

「帰るよ。時間がないんだ。ぼくはまだ死にたくないし、皆が君の帰還を待っている。結果はどうあれ、君はぼくらの未来を守ったんだからね。その功績は、認められるべきだろ、君自身にもね」
「……なんかチェレンらしくない」
「ぼくだって旅の間に成長したのさ」
「……そうね」

 トウコは頷き、そして顔を上げた。
 ちらり、空を見上げ、かたわらのレシラムの翼をなでる。そういえばレシラムはずっと、トウコの横にいたな、とチェレンがそちらに目をやると、レシラムはまるで微笑んだかのように、その白い翼を大きく広げた。そうしてトウコの頭の上で、ふわり、その翼を動かしてみせる。

「……なんだか頭なでられた気がするんだけど」
「なでたんじゃないの? あいつがいたらきっとそう言うさ」
「そうかもしれない」

 チェレンは苦笑を返す。トウコは目尻の涙を、リストバンドで乱暴に拭った。豊かな髪を、バサリと払って風を受ける。

「ありがとう、チェレン。行こう」

 彼と同じく、あたしたちも、ここから。
 トウコは壁の裂け目を指さして、笑った。

 こんどこそ、晴れやかに。

 レシラムの背に乗り、トウコは隣を飛ぶチェレンに向かって、叫ぶように声を上げる。

「あたし決めた!」
「なにを!」
「見せつけられるくらいの夢、見つける!」

 誰に、と聞くのもバカバカしい。チェレンは笑い、いいんじゃないの、と声を張り上げた。

 レシラムは風を切り、青空を裂いてぐんぐん飛んでいく。今日はきっと、あのNにとっても、トウコにとっても新しい旅立ちの日なのだ。そう感じて、チェレンは口を閉ざす。

 トウコの「夢」のきっかけがあいつだなんて。なんだか悔しいような、寂しいような。

「チェレンー! 遅いぞー!」
「あのね! 全速力のレシラムに、追いつけとか、無茶だって気づけよ!」

 そうして二人は、皆のところへ飛んでいく。

 その背後で、城は静かに崩れ、夢や別れを飲み込んで、ゆっくりと消えていった。