初めてブラック・コーヒーを飲んだ日のことを、あなたは覚えている?
とろりときらめく、深い深い瑪瑙の色をしたそれは、幼かったわたしにとって、大人の飲み物だった。
早く大人になりたくて、背伸びをしたくて。子供扱いされたくなくて。
ある日わたしは、いつもカフェオレを頼むスタンドカフェで、コーヒーを一杯だけ頼んだ。
けれど、ほんの少しだけ舐めてみたそれは、泣き出したくなるくらい苦くて。
他のすべての味がわからなくなって、途方に暮れた。
結局、子猫がミルクを飲むみたいに、ちりちりと、一時間近く掛けて飲んだのだった。
そうして、おとなはどうしてこんなものが飲めるんだろう。と、そればかりを不思議に思った。
*
アサギシティには、海の見える喫茶店がある。カフェ、というよりは「喫茶店」で、ミカンさんに聞いたところによれば、ずいぶんと古くからあるらしい。たしかに、ぴかぴかに磨きあげられた床は飴色で、椅子はビロード張り。とこどころ傷のあるテーブルは、使い込まれているうちにアンティークになったんだろうと想像させる、美しいつやを持っている。
ここのお店の名物は、美味しいコーヒーと分厚いパンケーキ。特にパンケーキは絶品で、綺麗なキツネ色、あつあつのところにバターをのせて、それが程よく溶けたところに、金色の蜂蜜をとろりとかけていただく。銀のフォークで切り分けて、ゆっくり口に運べば、ほろほろと口の中でとろけてしまうのだ。
だけど、いつもだったらものすごくおいしいと感じるそれの味が、今日はなんだかよく分からない。
――それは、わたしの前で、手帳とにらめっこしている、赤い髪の人のせい。
わたしが喫茶店の扉を開けたとき、時間がよくなかったのか、お店は満席だった。ご相席なら、と通された海の見える窓辺の席にいた先客が、そう、驚いたことに彼、シルバーくんだったのだ。彼はうつむいていた顔を上げ、わたしと目をあわせて「何だお前か」とだけ呟くと、また下を向いてしまった。
「あの、お邪魔、かな」
「別に」
「でも何かしてるんじゃ……」
「お前が来たくらいじゃオレの集中力は変わんねえよ」
だから座れよ。そう言う間、彼は一度も顔を上げなかった。
右側においてあったカップに口を付けると、すぐに、自分の作業に没頭していく。
わかってる、偶然だもの。「知り合いが通りかかった」って程度にしか思ってないんでしょう?
だけどちょっぴり落ち込んでしまう。
「……何してるの?」
「戦績分析」
「戦績?」
「バトルフロンティア」
確かに、わたしが話しかけたところで、彼の集中力に影響はでないらしい。
邪魔になっていないことにほっとしつつ、こうも会話にならないと、お前と話す気はない、と言われたようでさびしかった。
突き放されたわけではないけれど、一本ラインを引かれたように感じる。彼は自分の世界に人を入れる気がないのだ。
わたしは浅くため息を付いて、パンケーキとコーヒーを注文した。
それが、20分くらい前のこと。
わたしのところにパンケーキが来て、幸せな甘い香りが立ち込めて、それをわたしが口にする段になっても、シルバーくんは何も言わずに、黙々と手帳にペンを走らせていた。
邪魔にはならないと言っても邪魔だろうし、と思うと話しかけることもできなくて、わたしはミルク入りのコーヒーをちびちびと飲みながらぼんやり、シルバーくんを眺めている。
脚が長いなあ、椅子からはみ出てるわ、だとか。まつげも赤いんだ……だとか。骨張った指先が、やっぱり男の子だなあ、とか。
随分背が伸びたなあ、とか、肩幅が広くなったなあ、とか、あごのラインが綺麗だなあ……とか。
あれ、左利きだったっけ? とか、字、結構綺麗だなあとか、集中してる時の目元が、なんか、いいなあ。とか。
そんなことばかり考えているから、食べたものの味なんて、覚えていられるわけがなかった。 窓の向こうの美しい海原も、ただ、霞んだ灰色の景色に沈むだけだ。
ちらり、時計に目をやってみる。
そろそろ帰りどきかな、ぼんやりそう考えたとき、「ふう」と息をつく音が聞こえて、わたしは正面に顔を戻した。
「……終わったの?」
「終わったわけじゃねえけど、目が疲れた」
「……まあ、そりゃそうだろうね」
「やっぱ思い出せんのは20戦くらいが限界だな」
「そんなに!? それおかしいよ?! なんのためのバトルレコーダー!」
「バトルレコーダーじゃ気づいたことまでは残せねえだろうが」
当然のように言って、シルバーくんはばさり、手帳をわたしの前に広げた。
「お前、これどう思う」
その内容に、わたしは仰天する。
対戦相手の技の構成、自分が放った技の順番、相手と自分の持っていた道具の種類、推定される攻撃力、その他。
真っ白な見開きをびっしりと埋めた、緻密なメモに目眩がした。
わたしやヒビキ、レッドさんはよく「天才型」と言われるけれど、彼は「努力型」だ。
負けても負けても諦めずに、分析して、組みなおして、鍛えあげて、またぶつかる。
その情熱が眩しい。ああ、ポケモンたちに嫉妬してしまいそう。
「……ごめん。わたし、あんまりバトルフロンティアは行かないんだ。だからピンとこないな……」
「ああ……前にヒビキがそんなこと言ってたな」
「ヒビキは好きでよく通ってるよ。あそこって普通のトレーナー戦と違うから、わたしはどうもなじめないのよね」
そう、バトルフロンティアはシステマテックで、なんとなく馴染めない。
不器用なわたしは、直感を上手く使えない場所でのバトルが苦手だ。
そう伝えると、「チャンピオン倒した女が何言ってんだか」と、シルバーくんは笑った。
「そりゃ、まあ、苦手だけど勝てないわけじゃないわよ? そう簡単に負けないわ」
「じゃあ、どう思う」
「……えーと。あれ、いつもの手持ちの子たちとは違うんだね、メンバー」
「こいつらはバトルフロンティア向けのメンバーだ。フィールド戦とは技の構成も戦い方も根本的に違うからな。あいつらに変な無茶させたくねえ」
「そっか。……でも、何が来ても負けない構成、って難しいよ。すぐにはなんとも言えない。時間貰えたら考えてくるけど」
「まあ、それもそうだな」
納得したのか、シルバーくんは手帳を閉じた。
「今度ヒビキにでも聞いてみるか」
「……その方が多分、いい答えが返ってくると思うよ」
「だろうな。最近あいつ、いつ行ってもいるし」
「クロツグさんとの戦績が五分五分なんだって」
「……なんてヤツだ」
ブリーダーになりたいとか言ってる割にはバトルバカだよな。
そう呟いて、シルバーくんは手帳をしまう。
「最近ヒビキと仲いいよね?」
「よくねえよ」
「……いや、いいでしょ」
「よくねえって」
「ヒビキは『歳の同じ同性は貴重なんだよ』って言ってたよ?」
「……まあ、それは一理あるけどよ」
だから何だ、とシルバーくんは続ける。
仲がいいのは悪いことじゃない。
その中に入れて欲しいとか、そう言うのでもない。
ただ……
「……別に」
「はあ? どうでもいいなら聞くんじゃねえよ」
「悪かったわね」
わたしは目を眇めて、眉間にシワを寄せた。
分かってる、ヒビキに嫉妬するなんて、どうかしてる。
男の子たちの会話に入れないのが、寂しいんじゃなくて、苛立つの。
そんな自分の醜さがイヤ。
かわいい女の子に見えて欲しいのに。
優しい女の子だって思って欲しいのに。
見栄を張って、演じることもできないなんて。
「何カリカリしてんだ」
「……してないよ」
シルバーくんは肩をすくめると、疲れた目を労るように、まぶたを閉じた。
彼の世界が遮断されると、言葉も同時に途切れて消える。
そしてまた、わたしとシルバーくんの間に、目に見えな細いラインが一本、まっすぐに引かれるのだ。
空になったカップの底にぼんやりと、自分の顔が映って消える。
美味しいものを食べた。美味しいコーヒーをのんだ。
会いたかった人が目の前にいる。言葉を交わせて嬉しい。
そのはずなのに、苦いものが胸を満たして、自己嫌悪でいっぱいになってしまう。
それを誤魔化すように、わたしは意識を切り離して、ぼんやりとメニューを眺めた。
そして気づく。
――ああ、そうか。あれは、こういう時に飲むものなのね。
わたしは軽く手を上げて、「コーヒー、ブラックで」と、つぶやいた。