その恋 ノン・シュガー

 初めてブラック・コーヒーを飲んだ日のことを、あなたは覚えている?
 とろりときらめく、深い深い瑪瑙の色をしたそれは、幼かったわたしにとって、大人の飲み物だった。

 早く大人になりたくて、背伸びをしたくて。子供扱いされたくなくて。
 ある日わたしは、いつもカフェオレを頼むスタンドカフェで、コーヒーを一杯だけ頼んだ。

 けれど、ほんの少しだけ舐めてみたそれは、泣き出したくなるくらい苦くて。
 他のすべての味がわからなくなって、途方に暮れた。
 結局、子猫がミルクを飲むみたいに、ちりちりと、一時間近く掛けて飲んだのだった。
 そうして、おとなはどうしてこんなものが飲めるんだろう。と、そればかりを不思議に思った。

 アサギシティには、海の見える喫茶店がある。カフェ、というよりは「喫茶店」で、ミカンさんに聞いたところによれば、ずいぶんと古くからあるらしい。たしかに、ぴかぴかに磨きあげられた床は飴色で、椅子はビロード張り。とこどころ傷のあるテーブルは、使い込まれているうちにアンティークになったんだろうと想像させる、美しいつやを持っている。
 ここのお店の名物は、美味しいコーヒーと分厚いパンケーキ。特にパンケーキは絶品で、綺麗なキツネ色、あつあつのところにバターをのせて、それが程よく溶けたところに、金色の蜂蜜をとろりとかけていただく。銀のフォークで切り分けて、ゆっくり口に運べば、ほろほろと口の中でとろけてしまうのだ。
 だけど、いつもだったらものすごくおいしいと感じるそれの味が、今日はなんだかよく分からない。

 ――それは、わたしの前で、手帳とにらめっこしている、赤い髪の人のせい。

 わたしが喫茶店の扉を開けたとき、時間がよくなかったのか、お店は満席だった。ご相席なら、と通された海の見える窓辺の席にいた先客が、そう、驚いたことに彼、シルバーくんだったのだ。彼はうつむいていた顔を上げ、わたしと目をあわせて「何だお前か」とだけ呟くと、また下を向いてしまった。

「あの、お邪魔、かな」
「別に」
「でも何かしてるんじゃ……」
「お前が来たくらいじゃオレの集中力は変わんねえよ」

 だから座れよ。そう言う間、彼は一度も顔を上げなかった。
 右側においてあったカップに口を付けると、すぐに、自分の作業に没頭していく。
 わかってる、偶然だもの。「知り合いが通りかかった」って程度にしか思ってないんでしょう?
 だけどちょっぴり落ち込んでしまう。

「……何してるの?」
「戦績分析」
「戦績?」
「バトルフロンティア」

 確かに、わたしが話しかけたところで、彼の集中力に影響はでないらしい。
 邪魔になっていないことにほっとしつつ、こうも会話にならないと、お前と話す気はない、と言われたようでさびしかった。

 突き放されたわけではないけれど、一本ラインを引かれたように感じる。彼は自分の世界に人を入れる気がないのだ。

 わたしは浅くため息を付いて、パンケーキとコーヒーを注文した。

 それが、20分くらい前のこと。
 わたしのところにパンケーキが来て、幸せな甘い香りが立ち込めて、それをわたしが口にする段になっても、シルバーくんは何も言わずに、黙々と手帳にペンを走らせていた。
 邪魔にはならないと言っても邪魔だろうし、と思うと話しかけることもできなくて、わたしはミルク入りのコーヒーをちびちびと飲みながらぼんやり、シルバーくんを眺めている。

 脚が長いなあ、椅子からはみ出てるわ、だとか。まつげも赤いんだ……だとか。骨張った指先が、やっぱり男の子だなあ、とか。
 随分背が伸びたなあ、とか、肩幅が広くなったなあ、とか、あごのラインが綺麗だなあ……とか。
 あれ、左利きだったっけ? とか、字、結構綺麗だなあとか、集中してる時の目元が、なんか、いいなあ。とか。

 そんなことばかり考えているから、食べたものの味なんて、覚えていられるわけがなかった。 窓の向こうの美しい海原も、ただ、霞んだ灰色の景色に沈むだけだ。

 ちらり、時計に目をやってみる。
 そろそろ帰りどきかな、ぼんやりそう考えたとき、「ふう」と息をつく音が聞こえて、わたしは正面に顔を戻した。

「……終わったの?」
「終わったわけじゃねえけど、目が疲れた」
「……まあ、そりゃそうだろうね」
「やっぱ思い出せんのは20戦くらいが限界だな」
「そんなに!? それおかしいよ?! なんのためのバトルレコーダー!」
「バトルレコーダーじゃ気づいたことまでは残せねえだろうが」

 当然のように言って、シルバーくんはばさり、手帳をわたしの前に広げた。

「お前、これどう思う」

 その内容に、わたしは仰天する。
 対戦相手の技の構成、自分が放った技の順番、相手と自分の持っていた道具の種類、推定される攻撃力、その他。
 真っ白な見開きをびっしりと埋めた、緻密なメモに目眩がした。

 わたしやヒビキ、レッドさんはよく「天才型」と言われるけれど、彼は「努力型」だ。
 負けても負けても諦めずに、分析して、組みなおして、鍛えあげて、またぶつかる。
 その情熱が眩しい。ああ、ポケモンたちに嫉妬してしまいそう。

「……ごめん。わたし、あんまりバトルフロンティアは行かないんだ。だからピンとこないな……」
「ああ……前にヒビキがそんなこと言ってたな」
「ヒビキは好きでよく通ってるよ。あそこって普通のトレーナー戦と違うから、わたしはどうもなじめないのよね」

 そう、バトルフロンティアはシステマテックで、なんとなく馴染めない。
 不器用なわたしは、直感を上手く使えない場所でのバトルが苦手だ。
 そう伝えると、「チャンピオン倒した女が何言ってんだか」と、シルバーくんは笑った。

「そりゃ、まあ、苦手だけど勝てないわけじゃないわよ? そう簡単に負けないわ」
「じゃあ、どう思う」
「……えーと。あれ、いつもの手持ちの子たちとは違うんだね、メンバー」
「こいつらはバトルフロンティア向けのメンバーだ。フィールド戦とは技の構成も戦い方も根本的に違うからな。あいつらに変な無茶させたくねえ」
「そっか。……でも、何が来ても負けない構成、って難しいよ。すぐにはなんとも言えない。時間貰えたら考えてくるけど」
「まあ、それもそうだな」

 納得したのか、シルバーくんは手帳を閉じた。

「今度ヒビキにでも聞いてみるか」
「……その方が多分、いい答えが返ってくると思うよ」
「だろうな。最近あいつ、いつ行ってもいるし」
「クロツグさんとの戦績が五分五分なんだって」
「……なんてヤツだ」

 ブリーダーになりたいとか言ってる割にはバトルバカだよな。
 そう呟いて、シルバーくんは手帳をしまう。

「最近ヒビキと仲いいよね?」
「よくねえよ」
「……いや、いいでしょ」
「よくねえって」
「ヒビキは『歳の同じ同性は貴重なんだよ』って言ってたよ?」
「……まあ、それは一理あるけどよ」

 だから何だ、とシルバーくんは続ける。

 仲がいいのは悪いことじゃない。
 その中に入れて欲しいとか、そう言うのでもない。
 ただ……

「……別に」
「はあ? どうでもいいなら聞くんじゃねえよ」
「悪かったわね」

 わたしは目を眇めて、眉間にシワを寄せた。

 分かってる、ヒビキに嫉妬するなんて、どうかしてる。
 男の子たちの会話に入れないのが、寂しいんじゃなくて、苛立つの。

 そんな自分の醜さがイヤ。
 かわいい女の子に見えて欲しいのに。
 優しい女の子だって思って欲しいのに。

 見栄を張って、演じることもできないなんて。

「何カリカリしてんだ」
「……してないよ」

 シルバーくんは肩をすくめると、疲れた目を労るように、まぶたを閉じた。
 彼の世界が遮断されると、言葉も同時に途切れて消える。
 そしてまた、わたしとシルバーくんの間に、目に見えな細いラインが一本、まっすぐに引かれるのだ。

 空になったカップの底にぼんやりと、自分の顔が映って消える。

 美味しいものを食べた。美味しいコーヒーをのんだ。
 会いたかった人が目の前にいる。言葉を交わせて嬉しい。

 そのはずなのに、苦いものが胸を満たして、自己嫌悪でいっぱいになってしまう。
 それを誤魔化すように、わたしは意識を切り離して、ぼんやりとメニューを眺めた。

 そして気づく。

 ――ああ、そうか。あれは、こういう時に飲むものなのね。

 わたしは軽く手を上げて、「コーヒー、ブラックで」と、つぶやいた。