4年後くらい。
*
シャ・ラ・ラ シャラララ
優しい音が鼓膜にコロコロと響いて、わたしはゆっくり覚醒する。
シャラララ シャ・ラ・ラ
銀の砂粒が転がるような、耳に涼しいこの音を選んだのは、「銀色の音」が、どこかあの人を思い起こさせるからだ。
燃え盛る炎のような、情熱的な色の持ち主なのに、その人のことをわたしは、月のよう、と思う。優しいのでも冷たいのでもない、どこか冴え冴えとした、けれど眩い、涼やかな月みたいだって。――そんなことを思ってるなんて言ったら、きっと彼は怒るんだろうな。太陽に依存してるようなあんなものに例えるなって、きっと目端を吊り上げる。
でも、ねえ知っていて欲しいの。わたし、あなたが太陽じゃ困ってしまうのよ。そりゃ、太陽がなかったらわたしたちは生きていけない。でも、太陽の近くには誰もいられないのよ。近づくすべてを焦がしてしまうもの。独り占めになんかしたら、世界が終わってしまうもの。
あなたはいつも、わたしの世界を輝らしてくれる。わたしの心に積もる澱を、さっとひと祓いにしてくれる。わたしにとっては太陽以上。だけど、わたしだけのあなたでいて欲しい、そんなわたしのワガママで、あなたを月だとわたしは思うの。
シャラララ・ラ
ぼんやり考えごとをする頭が、ゆっくりと光を受け入れていく。涼しい音が、わたしの胸元で鳴り響く。
その時ようやく、白いコットンの波の中で、ポケギアを握り締めていたことに気がついた。
薄目の世界を照らすのは白い光。銀色じゃなくて残念なんて思うわたし。
そうだ、どうして、握りしめて眠っていたのかしら。
いつもだったら充電器につないで、サイドボードに乗せておくのに。
新しくしたばかりのポケギアは、白っぽい銀色をしている。今までずっとピンクだったから、どうしたのなんてヒビキに聞かれたっけ。なんとなくよって答えながら、思い出していたのはあの人のこと。――でもきっと、ヒビキにはバレてるんだろうな。にやって笑ってたもの。生まれた時から一緒にいるって、やっぱり伊達じゃないのよね。
シャララ
ああ、そうだそうだ。ポケギア鳴ってるんだっけ。なんでここにあるんだっけ。
シャララララ・ラ
わたしは胸元のポケギアをのろのろと持ち上げる。願いを込めて、細い鎖でつないだ小さな銀色の月が、カチャリと小さな音を立てた。
まだ眠い、それをあの音がやわやわと揺り起こす。なあに、だあれ、どうしたの。
ゆるゆると視界に忍び込む朝の月、ぼんやりひかる青い光。
点滅する、音声通信のマーク。
「……えっ」
自分の悲鳴に驚いて目が開く。
その瞬間、急激にわたしの頭が回転を始めた。
布団の中から飛び上がる。
そうだそうだそうだ!
「あ、あの、も、もしもし!? シルバー?!」
『よお、コトネか……やっと起きたな』
「う、や、それは……」
『何コール鳴らさせんだよ』
「ごめん……」
『まあ、お前の事だから100%寝坊だろうと思ったけどよ』
電話の向こうから、涼しい声。
どうしよう、どうしよう。
「わ、悪かったわね……」
『掛けて正解だった……遅刻すんじゃねえぞ』
月の音が朝日に溶けて、遠くでちりちり、忍び笑い。
ああ、朝起きて、一番最初に聞こえた声が、きみだなんて!
回転しだしたわたしの頭は、どうやらいつもと逆回りしているみたい。
どうしよう、どうして、なんだっけ、なんでだっけ?
すぐそこにあるはずの答えに手が届かない。
もどかしい、どうしよう、どうして、なんで?
「し、しないわよ!!」
『どうだか』
くくくってまた笑う声。
ムッとするはずなのに、じわじわあったかい気持ちになって、なんだかもう、泣きたくなる。
(……仕方ねえから教えてやるよ)
(……え!? うそ、ほんとに?! なんで!?)
(なんでって、待ち合わせるなら知ってた方が便利だって言ったのお前だろ。そんなに驚くことか?)
(だって、ねえ、知りあって何年たつと思ってるのよ!)
(3年くらい)
(4年よっ!!)
――ああ、すっかり思い出した!
待ち合わせをすることになって、ついに、ポケギアのナンバーを教えてもらったのだ。
それがあんまりにも嬉しくて、わたしは昨日の夜、ベッドに入った後もずっと、ずーっと、メモリーを眺めていた。何度も何度も液晶を指でなぞって、無機質な光なのに胸がいっぱいで。掛ける予定もそうそうないくせに、ただ番号を教えてもらっただけでこんなに嬉しいなんて、わたしったら単純すぎるわなんて自分に毒づいたりして。でも嬉しい気持ちは止められなくて、胸の内側からバラの花が咲き溢れるみたいだった。
そうして画面を見つめたまま、気がついたら眠りに落ちていたのだ。それにしたって、ポケギアをぎゅっと握りしめて眠っていたなんて、どんだけ嬉しかったのよ? 我ながら呆れてしまう。
「ご、ごめん、絶対間に合わせるから!」
『あんま急いでコケんなよ』
「大丈夫よッ! わたしを何だと思ってるわけ?!」
『手に負えないどんくさいヤツ』
「ひどい!」
怒ってみせるけど、声が笑っちゃう。ちっとも怒ってないって、きっとバレバレ。
ああ、音声通信で良かった! 慌てて寝癖をなでつけながら、クローゼットを大きく開ける。
どうしよう、何を着よう。どれを着たら、カワイイって思ってもらえるの?
髪はどうしよう、いつもの二つ結びじゃこどもっぽいかな。じゃあ、シュシュでポニーテールは? 下ろした方がオトナっぽいよね、でも寝癖が!
ああもう、跳ねっ毛が全然いうこと聞いてくれない!
「あいたっ」
『何だどっかにぶつけたか?……気をつけろよ、おまえどんくさいんだから』
「うるさいなぁー……クローゼットのドアに肘をぶつけただけですー」
『どんくさい上にそそっかしいよな』
「うーるーさーいー!」
『ったく、そんなに慌てんなよ。オレ、ウツギ博士に挨拶してくる』
「……へ?」
切るのが嫌で、ハンズフリーモードにしてバタバタと走り回っていたからだろう。呆れたような声が聞こえて、わたしは思わず脚を止めた。
待ち合わせは、キキョウシティのポケモンセンター前だったはずだ。それなのに、どうしてウツギ博士が出てくるの?
ぽかんとしたわたしを感じ取ったのか、彼はまた小さく笑ったようだった。そして囁くように言う。
『着替えたら、窓開けろよ。じゃあな』
わたしは窓に走り寄る。
着替は途中だけど、それどころじゃない!
シャッと小気味いい音を立てて開いたカーテン、隣の研究所の前に、赤い影。
「シルバー!!」
わたしを見上げて驚いた瞳は、間髪入れずに薄く笑った。そのまま、ひらひらと指先だけ振って、扉の方へと消えていく。
それがまぶしくて、わたしは目を細める。笑って言葉を続けたかったけど、胸が詰まって言葉がでない。
どうしよう、泣きそうだ。ほんの数メートル先にいるのに、ちょっと背を向けられただけでなんだか寂しいなんて、ばかみたい。
こういう時はどうすべきか、そんなの分かりきっているじゃない。
――ポケギアの電源をオフにする。
一番手近な服を手にとった。カワイイって思ってもらいたいけど、そのために悩んで悩んで、時間がなくなるのはイヤ。一秒だって長く隣にいさせて欲しいんだ。
でもでも、顔洗わなきゃ、歯を磨かなきゃ、寝癖直さなきゃ、ポケギア充電しなきゃ! ちょっとくらいはお化粧もしたいし、カバンの中身だってちゃんとしたい。きのみプランターは……ごめん、後回し! 貰ってたメールへの返信もまたあとで! ああもう、なんでこんなに、やらなきゃならないことがたくさんあるの!
早く隣に立ちたいな、そして言わなきゃ。
君の声で迎えた朝は、今までで一番幸せな朝だったって。
――いつか、ポケギア越しじゃない、シルバー自身の声で起こしてもらえる日をほんのりと夢想しながら、わたしは大慌てで、自分の部屋を飛び出した。