遅桜

 少年が長い旅から戻ったとき、春はすでに過ぎ去ろうとしていた。
 たとえば水面は濃い緑の木々を映して夏の色になり、空は青を濃くして、過ぎた春を懐かしく思い返している、という具合に。

 それから数日たったその日も、空は晴れ渡り、陽光が燦々と降り注いで、汗ばむほどの陽気だった。
 最後に旅をしたシンオウ地方の、遅く、穏やかな春に慣れきっていた彼の身体は、まるで時を超えたかのように錯覚して、目眩を起こす。
 あまりの暑さに焦れて、彼は上着を脱ぐと腰に巻いた。額ににじんだ汗を拳でぬぐい、深く息をはきだす。
 故郷の空気と身体のずれに、自分がこの地を離れての三年が、短いようでやはり長い時だったのだ、と思い知る。

「暑いか?」

 問いかけると、彼の相棒のバクフーンは、頷くように鼻を鳴らした。
 炎を司るポケモンであるはずの彼は元来暑さに強いはずだが、暑さに弱いマスターに似てしまったのかもしれない。

 少年は日光を振り切るように、町外れの森へと脚を向けた。

 まだ彼が幼かった頃、ひとり遊びをしたそこは、常緑の森だった。それゆえに森は「ときわ」と呼ばれ、それはいつしか隣接する町の名前になり、今ではチャンピオンロードへ続く土地として、トレーナーたちに広く知られている。
 とこしえに青々と広がる緑葉は直射日光を程よく緩め、レース越しの朝の光のように、柔らかくして地面に投げていた。少年は空を仰ぎ、ひんやりとした空気を肺いっぱいに吸い込んで、そして深く吐き出す。
 森には癒しの力があると人はいう。鵜呑みにするではないが、嘘でもなさそうだ、と少年は独り言ちた。

 軽く瞳を閉じ、ゆっくりと開く。
 瞼の裏の闇から開放された世界は、一秒前よりも清浄に見える。
 少年は、連れていたバクフーン以外のポケモンたちを、ボールから解き放った。
 解き放たれた彼の相棒たちは嬉しそうに、少年の周りを囲む。
 穏やかな風が少年の頬を撫でた。

「……?」

 ばさりと羽根を広げたクロバットが起こした風に乗って、視界を白いものがちらついた。
 それはふわりと地面に落ち、大人しくなった。
 少年は、白い、小さな貝がらに似たそれを人差し指でつまみあげ、紅玉を細めて見つめる。
 涼やかでなめらかな、薄い花びら。ほんのわずかに、澄んだ香りがした。

「桜……?」

 シンオウ地方ならばいざ知らず、そこはとうに、桜の季節を通り過ぎているはずの場所だった。
 常葉の森は、一年を通して緑鮮やかな場所だけれども、花が狂い咲く土地ではない。春に桜、夏に百合、秋に萩。冬に山茶花、そして梅。四季を通じて花たちは、自分がもっとも輝くときを知っている。そしてそのときに、一番美しく咲き誇るのだ。

 少年は花びらを振り落とした。
 彼は花に詳しくない。バラやタンポポ、チューリップなど、誰でも知っているような花の名前を聞き覚えているだけだ。それでも、この時期に桜が見られないということくらいは知っていた。どこかの枝に一輪二輪、遅れて咲いたものがあるのだろう、そう判断する。

 ひらりひらり、ひらひらり。白いちっぽけなかけらはゆらゆらと、静かに緑の地に沈んだ。
 なんとはなしにそれを追い、少年は気がついて目を見開く。

 ――散っているのは、一枚ではない。

 白い破片は点々と、草むらに引っかかっていた。思わず顔を上げ、森を見渡したが、それらしい木は目に入らない。
 すると、マスターの動きをじっと見守っていたマニューラが、くん、と少年の服の裾を引いた。

「どうした?」

 少年が目を覗くと、マニューラは大きな爪で、森の奥を指した。

「なんだ……っておい!」

 マニューラは腕を伸ばして、こっちこっち、と彼が腰に巻いていた上着を引いた。それにあわせるように、バクフーンが彼の背を押す。
 押されて思わず足を踏み出した彼の前を、ゲンガーとフーディンが、ぱたぱたと走っていく。その後ろで、ジバコイルとクロバットが宙を舞う。

「こら、待て!」

 仕方なしに少年は、仲間たちを追って走り出し――いくらも行かぬうちに、ぴたりと、足を止めた。

 常葉の森の奥、人の気配の遠い、開けた明るい丘。
 そこには、美しくけぶる、白い樹が一本、両腕を広げて立っていたのだ。

 さわさわと吹き上がる風が、まるで白い霧のように、その花びらを散らす。
 その、春の嵐の前で、彼は言葉を失って立ち尽くした。

 けれど、彼の息を止めたのは、その季節はずれな花の美しさのせいでも、雪のように舞い上がる花びらのせいでもなかった。

「…………シルバー、くん?」

 それは、桜の下に座り込んで花を見上げていた、ひとりの少女のせいだった。

 白く舞い上がる花びらの渦の向こうに、彼女は座り込んでいた。
 よほど驚いたらしく、その大きな琥珀色の瞳は、こぼれ落ちそうなくらいに見開かれている。
 自分を見つめる少女の姿が、なぜだか消えそうに見えて、シルバーは返事をためらった。

 どうしてこんなところに。
 彼女の姿を望んだが故の幻覚か、さもなければ白昼夢なのではないかと、柄にもなく考えたのだ。

「……どうしたの?」

 そう声をかけられて、幻想から抜け出したシルバーは小さく舌打ちをした。
 見れば、彼の仲間たちはいつの間にか、少女の相棒のそばに走り寄っている。
 ひさしぶりだね、げんきだった? そう声が聞こえてきそうな様子に、自然、ため息がこぼれた。
 彼らとて、三年ぶりなのだ。昔に何度となく戦ったライバルは、ポケモンにとっても軽い存在ではないだろう。

「……なにしてんだ」
「お花見」

 花を見上げて微笑む少女のそばに、シルバーは一歩、足を進めた。
 彼女はほんの少しためらったように体の位置を変え、足の向きを変えて座り直す。
 その仕草に、年頃の娘が男性に対して示すためらいを感じ取って、シルバーはわずかに目を見張った。
 胸に何かが滲みるのを、瞬きで誤魔化す。
 思えば、彼が帰ってきてから、ふたりきりになるのは初めてだった。

「座る?」
「……いや」
「…………じゃ、バトル?」
「そこまで野暮じゃない」

 そう、と返して、少女は視線を地面に落とした。
 その横顔に、シルバーは再び息を奪われる。

 薄く紅のさした頬、薄い肩、桜色の小さな唇と、影を落とす栗色のまつげ。

 確かに彼女だと分かるのに、見覚えのある姿とはずいぶんと変わっている。
 あの頃の彼女とはもう違うのだ。

 綺麗になった、そう思い、それを打ち消すように頭を振る。

 それから何か言おうとして、シルバーは言葉を見失った。
 今更、何を話せばいいのか分からなかったのだ。当たり障りのないことさえも、ちらりとも浮かばない。
 よく考えれば、旅に出る前だって、勝負絡みでない会話など、ほとんどなかった。

 シルバーは内心、溜息をつく。
 ポケモンがいなければ何も会話がない、彼女と自分の関係は、そんなものだったのだ。

 何も思い浮かばない、それがこんなに情けないとは。

「……この木ね、いつも花が遅いんだよ」

 沈黙に沈んでしまったシルバーに焦れたのか、先に口を開いたのは彼女の方だった。

「ちょうどね、3年前の春に、それに気づいて」

 彼女の目が、ゆっくりとシルバーに向けられる。
 あの頃だったらきっとそらしてしまったであろう瞳を、今のシルバーは黙ったまま受け止めた。
 琥珀色の瞳と、紅玉色の瞳が、ゆるやかに絡まる。

「毎年この時期は、ここで、お花見」
「ひとりでか」
「うん、そう。めずらしいでしょ」
「……そうだな」

 彼女はまた、枝を見上げ、つられるようにシルバーも上を向く。
 青い空に、赤い葉と白い花が殊の外映えた。

「同じ種類の桜は、ほかにもあるのにね。この木だけなんだ」
「遅いのが?」
「うん。――何かを待ってるみたいで、なんだかね、ひとごととは思えなくて」

 少女の顔が、切なげに歪んだ。
 シルバーの心臓が小さく跳ねる。
 誰を待っているのかなどとは聞けない。けれど。でも。

 そんな顔をしないで欲しいと、シルバーは確かに思う。
 あの頃とは、違う温度で。

「……この木が咲くと、春が終わるなあって思うの」
「夏が来る」
「……うん、そうだね」

 前向きじゃない、彼女はそう言って、ふわりと笑った。
 その顔はやっぱり、もう、あの頃の彼女ではなくて、でも、確かに彼女で。

 はらりと落ちた白い花びらが少女の前髪に宿り、シルバーは思わず手を伸ばす。
 彼女は大きく目を見開いた。少年はそれに気がつかない振りをして、その花びらをつまみ上げた。

「……コトネ、花びら」

 白い破片を指に乗せ、そっと差し出す。
 コトネはそれに見向きもせずに、ひたむきに赤い瞳を見つめた。
 直視できなくなって顔をそらしたシルバーに、ふふふ、と笑みを漏らす。

「…………やっと名前、呼んでくれたね」

 ごう。
 シルバーが目を見開いた瞬間に、突然、強い風が吹いた。
 地面を飾っていた花びらたちと共に、シルバーの指先からも、破片が踊る。

 春の雪に包まれてふたりは、終わりと始まりを、確かに見た。

 そう、季節はやがて、夏になるのだ。