スカーレット

「そしてぼくらはたびにでる」から3年後

 コトネは毎週金曜日の夕方に、クチバシティのベンチに座っている。
 ときどき、どうしても海が見たくなるのだ、と彼女は言う。

 コトネが時々、クチバから海を眺めているのに気がついたのは、カスミだった。
 ある時カスミがジョウトに出掛け、アクア号で帰ってきた時に、コトネはタラップのそばでキャモメを眺めていたのだ。

「あら、コトネじゃない」
「カスミさん」

 お久しぶりです、と、膝の上にピカチュウを乗せてコトネは笑った。

 伸びた髪、綺麗に整えられた指、ほんの少しだけヒールのある靴、始めたばかりの薄化粧。もちろん、トレーナーだから、街をゆく女の子達のようなおしゃれは出来ない。
 けれども、やんちゃなお転婆娘だったコトネもすっかり年頃の少女になって、愛らしさより美しさで人目を惹くようになってきた。ショートパンツは相変わらずだが、そこから滲むのはもう、子どもらしい溌剌さではない。
 まるで姉にでもなったような気持ちで、カスミは目を細める。

「ピカチュウ? あんたが連れてるなんて珍しいわね」
「ボルテッカー覚えてる子なんですよ」

 ぴか、と膝の上のピカチュウは鳴いて、大人しくコトネの腕に収まっている。
 ヒビキが卵をくれたんです、そう返事をしながら、コトネは瞳を海へと戻した。つられるように、カスミも視線を移す。
 コトネの座るベンチの背に肘をついて、キラキラと輝く海を見つめた。

「誰か待ってるの?」
「いえ、そういうわけでは。――ただ、ちょっと海が見たい気分で」
「海ならジョウトでも見られるじゃない。あんたワカバの出身なんでしょ」
「まあ、わたしの部屋からでも見えないことはないんですけど」

 ここがいいんです、とまた笑う。

「ときどき、どうしてもここの海が見たくなるんです」
「まあ、それなりに風情はあると思うけど、そんなに特別な眺めかしらね? 25番道路の高台の方が、眺めいいわよ」
「あそこは絶景ですよねえ」
「うん、最高」

 ふと言葉が途切れ、静かな街に穏やかな波の音が響いた。キャモメの鳴き声が微かに、曇り空から聞こえてくる。
 雲の切れ間を山に沈む日を受けた海は、金色に輝いて、まるで黄金の絨毯のようだ。

 きれい、とコトネは呟いた。

 けれど、その目がどうしようもなく、遠くを見ているのにカスミは気がつく。
 ゆるり、溶けるように揺れるキャラメル色の瞳は、夕陽なんて見ていないのだ。

(なるほど、ね)

 燃え上がるような赤い陽が、静々と海に沈んで冷えてゆく。
 目を、心を射抜く、あまりにも眩いスカーレットを見ると、たまらなくなる。その気持ちはカスミにも分かる。

 あかのなをもつひと、あかいすがたをもつひと。

 彼女は待っているのだ。
 ここから旅立ったという、スカーレットが帰るのを。

 太陽がすこしずつカーマインに代わり、やがてクリムゾンになるころ、カスミはぽつんと呟いた。

「元気かしらね」

 弾かれたようにコトネは顔を上げた。
 カスミはちらりとだけ目をくれて、すぐに視線を海へと戻す。

「……カスミさん」
「もう、3年だっけ?」
「そうですね」
「一回も連絡ないとか、なに考えてんのかしら」
「さあ……」
「でも、あいつのポケギアに電源が入ってるとこ、見たことないのよね」
「わたしは、ポケギアを持ってるところを見たことがないですよ」
「そもそもね。……ほんっと、コミュニケーション能力が低くて困るわ」
「……思えば、そこのところは微妙なふたりでしたよね」
「…………まったくだわね。よりによっての組み合わせよ、今思えば」

 カスミは苦笑して、コトネを見た。コトネもまた、子供らしくない苦笑を浮かべていた。

「いつか帰ってきたら、一発殴ってやろうって思ってるのよ。その時は、あんたも参加しなさい」
「ぜひ呼んでください、飛んでいきます」

 顔を見合わせて笑い、ふたりは瞳を海から空に向ける。
 
 ぴか、と膝の上から、小さな鳴き声が上がる。
 それに合わせたように、美しい星空をひとすじきらり、小さな星が流れて消えた。