そしてぼくらはたびにでる、のつづき。
*
早まった事をしたのではないか、という思いは少なからずあった。
自棄っぱちで飛び出すなんてガキのすることだ、と反省する気持ちもなくはなかった。
けれども、もう戻れない。
揺れる甲板で、藍色の水面と銀色の波間を見つめ、シルバーはぼんやりと、そんなことを考える。
もちろん、いまここでクロバットを出せば、距離こそあれど、彼はシルバーを間違いなく、カントーもしくはジョウトへ送り返してくれるだろう。クロバットはいわゆる「懐き進化」をするポケモンで、それゆえにマスターには絶対忠実だ。シルバーは今でも不思議に思う。なぜ彼は、クロバットになったのだろう、と。
コトネはエーフィとルカリオを持っている。彼女たちもまた、懐き進化をするポケモンだとシルバーはコトネ自身から聞き、そして納得した。コトネがまるで家族のように、自分の手持ちを慈しむのを知っていたからだ。コトネは朝に夕にと手持ちに声を掛け、道行に連れ歩き、甘い木の実を食べさせて、膝に抱えてその背をなでる。世界を知らない幼子を庇護する母親のように、バトルをしていない時のコトネは、ポケモンたちにひどく優しい。
それであれば、ポケモンたちが懐き、進化をするのも頷ける。けれどもシルバーは、手持ちに対して、そんな態度を取ったことはなかった。よくやったとバトル後に頭を叩いてやるくらいの事はしないでもないが(とは言えそうするようになったのもつい最近のことだ。多分彼女に影響されてしまったのだろう)、常に連れ歩くわけでもないし、毎日声を掛けるでもない。ひどく汚れていれば洗ってやるが、それも自分が汚れたくないだけのことで、誰でもする、当たり前の事だ。バトルを始めた頃は虐げてさえいたというのに、ごく当たり前に手持ちに入れていた、ただそれだけのことで果たして懐くものなのだろうか。
「……お前が口を利ければ、何を考えているのか分かるのにな」
シルバーは手すりから身体をもたげ、ベルトからボールをひとつ取り外すと、頬杖をついて語りかけた。ボールを海に落としてしまわないように、一歩下がる。ボールはカタカタと揺れ、シルバーの手の平を転がった。
「分かった分かった、暴れんな」
ボタンを押せばぽんと飛び出す、夕暮れ色の優美な蝙蝠。ズバットの時はあんなに弱そうだったのにな、シルバーは苦笑し、相棒のために左腕を伸ばしてやった。大人ひとり分の大きさ、そして重さを持つのはずのクロバットは、雪のような軽やかさでふわりと止まる。羽根を広げ、マスターの腕に負担を掛けぬようにと配慮しているのだと、さすがのシルバーにでも分かった。
「気、遣いやがって」
右手でそっと撫でてやれば、彼はふわりと浮き上がって、シルバーの眼前に降りてきた。
その金色の瞳は柔らかく、問いかけるようにシルバーを覗く。
もどりますか、マスター。
瞳の色を、そう解釈して、シルバーは首を振った。
「戻らない。戻れねえんだ。ケンカ、しちまったしな。……お前、帰りたいか?」
金色の瞳はぱちぱちと瞬いて、いいえ、と言うように頭を振った。
動いた羽根から巻き上がる風に一瞬目を細め、シルバーはその羽ばたきの声を聞く。
あなたのいるところが、わたしのいばしょです。
そう言われているように感じて、シルバーは微かに笑った。
「お前以外のヤツも、そう思ってくれてりゃいいけどな。――博士は、オレに懐いていると言ったけど、海を渡りたいとは思っちゃいなかっただろうし」
最初の一匹を思い出し、シルバーは口角を上げた。
とんでもなく早朝の船だったからだろう、風の冷たい朝の港で、彼の相棒はうとうととまどろんでいた。船に乗る前にボールに戻すとき、いつもよりずっと大人しく収まったから、それっきりにしてあったのだ。
今頃、居心地の良い球体の中で、何らかの夢を見ているのだろう。ポケモンの見る夢は、幸せな夢なのだろうか。ポケモンも、誰かを夢に見たりするのだろうか。目覚めたとき、遠い異郷の地にいることに気づいたら、あいつはどうするだろう。驚いて騒ぐだろうか。それとも、何も言わず、いつものように、自分の後ろに立つのだろうか――
「……コトネの手持ちだったら、お前らも幸せだったのかもな」
思わず呟いた小さな言葉は風に乗り、波間に消える。クロバットは大きく羽ばたき、今度は全体重をシルバーの肩に掛けた。
「っ、こら、重いっつの! 降りろ!」
いやいやをするようにしがみつかれて、シルバーは大きなため息を付いた。
「降りろ! ――手放すつもりはねえよ、オレはお前らと上を目指すって、決めたんだ」
お前らが逃げたがったって、逃がしてやらない。
シルバーは目を閉じ、クロバットを肩から下ろす。つぶやきが聞こえたのだろう、クロバットはもう、抵抗しなかった。
「戻れ。……先はまだ長い」
大人しくボールに戻ったクロバットをベルトにかちりと戻し、シルバーは青に鈍色を溶かしたような、暗い海を見つめた。
かなしみとはきっとこんな色をしているのだろう、ぼんやりそう考える。
けれども見上げた空は高く、飛沫は白く、宙に光った。
頬打つ潮風、塞ぐ心の向こう側に僅かな高揚を感じて、シルバーは前を向く。
そうしてくるりと踵を返し、シルバーの背は船室に消えた。
彼はそれきり、二度と振り返らなかった。