予兆

一路南へ、のつづき。

 右手に水、左手に薬を持って、シルバーはあきれ果てていた。
 目の前の寝台の上には、赤い帽子を被った少年が、真っ青な顔で伸びている。

「……まさかの船酔いかよ」
「………………」

 少年は億劫そうにノロノロと帽子を脱ぎ、そのままくたりと動かなくなった。
 シルバーは溜息をつく。なんか言えよ、というのも無駄だということは、船に乗る前に気がついていた。

「地面がゆれる」
「そりゃ、ここはシロガネ山じゃねえからな」
「…………きもちわるい」
「ここにおいとくぞ。揺れてこぼれる前に飲めよ」

 おいたグラスにぺちぺちと、黄色いポケモンが歩み寄る。

「ぴーか?」
「あ? ああ、15歳以上は2錠だってよ」
「ぴかぴ!」

 白いタブレットの入った銀紙を口にくわえ、水の入ったグラスを両手に抱えて、黄色いポケモン――ピカチュウは寝台に飛び乗った。
 器用な上に面倒見のいいヤツだ、まあ、任せておけば何とかするだろう。シルバーは呆れた顔を元に戻し、部屋を出る。
 背中から、「……にがいのはやだな」「ぴっかー!!」「……わかったよ」「ぴかぴか!!」なんて、漫才のような音が聞こえた。

 ホウエンに向かう船には、何組かのトレーナーが乗っていた。
 ホウエンに帰るもの、ホウエンに向かうもの、船旅そのものを愉しむもの。地方は変わっても、皆、ポケモン勝負を楽しもうと言う心意気は変わらないものらしい。シルバーは、目が合ったトレーナーたちを軽くなぎ払いながら船旅の長い時間を潰していたが、彼を連れ出したはずの少年――レッドは、一度も船室を出てこなかった。
 誰よりもバトルに命を掛けている男が一体どうしたことかとシルバーは訝しんだが、その理由はすぐに知れた。

 レッドは船旅に慣れていなかったのだ。

 船が出港していくらもたたぬうちに、彼の顔は真っ青を通り越して真っ白になってしまった。シルバーが異変に気がついたときには、レッドの瞳の奥底でぎらついていた光はとっくに消えてしまっていて、彼は与えられた船室でぐったり、横になったままピクリとも動かなくなったのだ。船専属のジョーイさんは「船酔いね」と即断し、同室のシルバーに薬を渡した。幸いにしてシルバーはピンピンしていたので、レッドの面倒を見てやる羽目になったのだ。
 けれども、薬の効きが悪いのか、彼の顔はずっと青いままで、結局レッドはまだ一度も、船の中でバトルをしていない。
 もうすぐホウエンに到着するというのに、だ。

 至高の頂きに坐す、初代にして頂点とまで言われた男がこの様か。

 シルバーはそう考え、けれどもコトネの事を思い出して、頭を振った。
 ポケモンバトルの才能は、その他の才能とはかけ離れたところにあるのだと、彼女の存在が証明していた。その事を思い出したのだ。
 コトネは、人よりずっと鈍くさくて、不器用で、勢いばかりが先行する、元気だけは人一倍、の少女だった。普通に考えれば難ばかりの彼女だったのに、ポケモンたちと心を通わせることに関しては誰よりも上で、彼女の手持ちは皆、つやつやの毛並みと生気に溢れた瞳をしていた。彼女が愛し、彼女を愛したポケモンたちは、通常時の200%の力でもってして戦闘に臨み……結果、彼女がほぼ無敗であることを、シルバーは知っている。

 レッドとコトネは似ている。シルバーは時たまそう思う。
 ただひとつのことに突き抜けた才能を持ち、それ以外はからっきしで、けれどもその飛び抜けた力に引きずられて、誰よりも高みへと飛んでいってしまうのだ。だからきっと、それがとても羨ましいことだなどとは、彼らは知らない。
 シルバーは拳を握り、奥歯をギリリとかみしめた。仕方がない、人には生まれついて、抜きん出た能力を持つものがいる。それはわかっている。問題は、その能力を持たずに生まれた自分が、どうやってそこに近づき、追い抜くか、だ。

 この旅はきっと、ひとつの契機になる。長くはない船旅の間に、シルバーはそう考えるようになっていた。

 ポケモンへの信頼が足りないと、諭されたことがある。だから君は、本当に強い人達に勝てないのだと。もっとポケモンたちを信じてやりなさいと。けれども、信じる、とはどういうことなのか。シルバーにはそれが分からなかった。
 信じろ信じろと人は言うが、一体そんなこと、どうやったらいいんだ。
 信じるって、なんなんだよ。
 どこへ行っても、なにを読んでも、解答はどこにも転がっていなかった。
 躊躇いの中で少しずつ、ポケモンたちとのコミュニケーションを図ってみたが、その結果は、強い人達はもっと強いのだと思い知ることになっただけだった。

 よく考えれば、それは当たり前だった。ただ信じるだけで強くなれるのなら、世界の誰だってチャンピオンになれる。おそらく、盲目的に「信じる」と言い張るのは、ただの「思いこみ」であって、「信じる」とは違うものなのだ。ポケモンを可愛がることが、イコール愛情ではないように。
 ――どうやら、「信じる」ためには、他の要素が必要らしい。

 オレにはオレの道がある。……あるはずだ。

 それを見つけなければ、きっと、強い人々に太刀打ちできない。誰かと同じ何かにたどり着くか、全く新しい概念にたどり着くか。もしかしたら、なにも見出せないかもしれない。
 けれど、何かがこの先にあるような、そんな頼りない予感が、船の揺れと同じように、つきまとっている。
 それは湧き上がる不安の奥で、微かな興奮の味をしていた。

 手すりにもたれ、頬杖をついてシルバーは空を見上げた。
 ふう、ため息を付いたその時。

 舳先のほうで、わあっと歓声が上がった。

「何だ……?」
「坊主見ろ、ホウエンが見えたぞ」
「うわっ」

 水夫に背を叩かれ、舳先に突き飛ばされたシルバーはよろめきながら、突き出された指の指し示す方へ目をやる。
 そこには、晴れ渡った空の下に白く霞む、大地が悠々と横たわっていた。
 シルバーは息を呑み、それを凝視する。

 水面の色は、鮮やかな空色に変わっていた。