「高さが合ってない」
彼は、憮然としてそう言った。彼女はぱちぱちと琥珀色の瞳をまたたかせて、手鏡を覗き、首を傾げる。
「そうかな? わかんない」
「首を斜めにしてるからだろ。右が高い」
不満そうに彼は言い、眉根を寄せた。
空気が夏色に染まりはじめた、少し暑い日の午後だった。
ポケモンセンターから程近い森の端、大きな木の下に、子どもがふたり、眼が痛いほどの日差しから隠れるように座り込んでいた。
片方は、年齢不相応な面差しの少年で、もう片方は、いかにも快活そうな、キャラメル色の瞳の少女だ。ふたりの後ろには、藍色の毛並みの美しいバクフーンと、紅色の花びらの優雅なメガニウムが、大人しく寄り添っていた。その付き従う姿から、双方、優秀なトレーナーなのだろうとひと目で分かる。まだ幼い子どもたちだが、それは十分に有り得ることだった。なぜなら、ポケモン勝負では、根気や運、直感――バトルセンスが優れていれば、子どもが大人に勝つことは難しくないからだ。無論、経験という意味では、大人の方が有利ではあるのだが。
少女の名はコトネ、少年の名前はシルバー。
ジョウトに籍を置くトレーナーの間では、よく知られた子どもたちだ。
「そんなに高さ、違ってる?」
「正面から見りゃ全然違う」
「……帽子かぶったら分かんなくならないかな」
「余計分かる」
シルバーはコトネの、強く跳ねる髪に指を掛けた。木漏れ日を浴びてきらめくそれを下に弾いて、反発で遊ぶ。撫でつけようが引っ張ろうが、必ずぱしんと戻ってくる強情な髪は、まるで彼女自身の体現だと、少年は少しだけ笑った。
「……おっきい鏡がないと、わかんないのよ」
コトネは不満そうに頬を膨らませ、「高い」と言われた右の髪に手を掛けた。それから小さくため息をこぼす。
緩んでしまった髪を結い直したら、高さがおかしいと指摘された。それはいい。問題なのは、指摘してくれたのが彼だったと言うことだ。木の下でひっくり返っていたシルバーは、通りかかったコトネの顔を見るなり指をさして、「頭が変だ」と口角を上げたのだ。
幼馴染やジョーイさんなら、よくある笑い話で終わることなのに、彼――シルバーの前では、何故だかそうできなかった。指摘を受けたコトネは真っ赤になって、慌てて両方の髪を解いた。そうして、結び直して……うまくいかずに、今に至る。
「不器用なやつ」
「悪かったわね」
「こんな不器用な奴に勝てない自分が信じらんねえ」
「うるっさいなぁもう!」
コトネは力づくで己の髪を引っ張った。ゴムを咥え、数本抜けた髪を払い、手櫛で梳いて、耳の後ろで軽くまとめる。
勢いに任せた所為でこぼれた髪を、薬指で拾い上げた。
「そこじゃない、もう少し下だ」
「わたしの感覚だとここなんだけど」
「お前の髪、右のほうが跳ねてるぞ」
「え?」
「だから少し下でないと高さが合わねえんだよ」
きょとんとしたコトネに溜息をついて、シルバーは手のひらを差し出した。
「……なに?」
「櫛ぐらい持ってねえのか。女のくせに」
「持ってるわよ! バカにしないで」
「じゃあ、貸せ」
コトネは首をひねりながらカバンを漁り、小ぶりのつげ櫛を取り出した。少し前に、エンジュの町で、舞妓さんに見てもらいながら選んだ櫛だ。
シルバーはそれを受け取ると、無遠慮に、コトネの髪に手を伸ばした。
コトネの心臓が跳ね上がる。
「え、なに」
「動くなよ」
シルバーは、既に結われている方の髪から、ゴムを解いた。ぱさり、軽い音を立てて、外に跳ねる栗色の髪が豊かに広がる。そうして彼は口を閉じ、コトネの髪に櫛を滑らせた。コトネは思わず、自分の胸元をぎゅっと握る。
身動きなんて、できるわけがなかった。バトルの前よりも、もっとずっと、とんでもないスピードで血が廻るっている。早鐘を打つ胸が痛い。
くらりと目眩に襲われて、コトネは慌てて目を瞑った。
さわ、日に熱された風が、木の葉を揺らす音が耳の奥をさらう。鼻先を撫でるのは、青い草熱れ。ああ、もうすぐ夏になるんだな。ぬるい風に相反する涼やかな音と、馴染み深い蒼い匂いは、コトネの弾む心臓を、少しずつ宥めた。
けれども、ほう、とため息を付いた次の瞬間。
「――っ!」
コトネは上がりそうになった声を喉の奥で押し殺し、ぎゅっと両の拳を握った。
少年の指先が、首筋を掠めたのだ。その瞬間走ったのは、くすぐったさとは違う、電撃のようなしびれだった。目眩は一層ひどくなり、体温が急上昇したのが分かる。心拍数が跳ね上がって、じっとりと手のひらが汗ばんだ。熱くなった頬を誤魔化すために何か言おうと口を開くも、コイキングのようにパクパクと、無為に動いただけに終わってしまう。
不意打ち、もちろん、偶然の。
コトネの走る鼓動に気付きもせずに、シルバーはきれいに真ん中から、彼女の髪を左右に分けた。何かひどく大切なものを扱うような、柔らかな手つきに、コトネは酩酊に似た感覚を覚える。尊大な口調の彼らしからぬ、繊細な指の動き。梳られる髪の気持ちよさに、思わず微睡んでしまいそうになって、ひとつ、深呼吸をした。
少し持ち上げるように櫛を通し、位置を測って、ゴムを回す。丁寧に、というよりは少し几帳面に括られた髪は、綺麗なシンメトリーになってコトネの左右でぴょこんと跳ねた。
「できたぞ」
自慢げな声がして、コトネは目を開く。恐る恐る手をやれば、いつもの位置に、自分の髪があった。
いつの間にか出てきていたニューラが、コトネの膝の上から鏡を奪い、目の前にかざす。
「……シルバーくんってさ、器用だよね」
「お前が不器用なんだよ」
完璧な位置。きれいな結目。左右で揺れる髪の量も、ぴったり。
悔しいけれど、自分がやるより断然綺麗だ。コトネは小さくため息をついた。
「……その、ありがと、う」
「今度は自分でやれよ」
シルバーは偉そうに胸を張って、それから口の端を上げる。その頬に光が落ちて、水晶のようにきらめいた。
コトネはそれに目を細め、胸元の服を握りしめて、少し悔しそうに頷く。
とくんとくんと揺れる胸の熱。その隣に、焦げ付くような悔しさ。
そのどちらも、まだ、まっすぐ見つめることができない。
用は済んだと言わんばかりに、シルバーは木に背を預けて目を閉じた。
今日は髪を洗わないでおこう、とこっそり心に決めて、火照る頬を、初夏の日差しの所為にしながら、コトネは自分の毛先を弄ぶ。
爽やかな初夏の風が、コトネの首筋を優しくなでていく。
早足の夏雲が、静かにふたりを見下ろしていた。