青い月

「あつい……」

 それはそれは月の綺麗な、だけどちっとも風のない、真夏の夜のこと。

「あついよチコさん……」
「がにゅ……」

 無風の夜は寝苦しくて、おかしくなりそうだ。横になっているだけで、じっとりと汗をかいてしまう。気持ち悪くて、寝袋の中にもいられない。
 わたしはタオルケットを一枚お腹にかけただけで、チコさんに寄りかかって呆然としていた。

「……チコさんだって暑いよね……」
「にゅ…………」

 運悪く、近くにポケモンセンターがない道の途中で日が暮れてまったのだ。
 わたしは極力、夜中には移動しないようにしている。女の子には危ない、というのももちろんあるけれど、どちらかというと、転んだり道を間違えたりするのを避けるためだ。
 旅に出るまであまり意識しなかったのだけれど、どうやらわたしは人よりそそっかしいというか、不器用というか、よく転ぶしよく落ちるしよく道を間違えるのだ。そんなこんなでライバルのシルバー君にはしょっちゅう「ありえないどんくさいお前はどんだけバカなんだ面倒見切れん気をつけろ」とお小言を食らい、幼馴染のヒビキには「コトネ、地図は上が北だよ、太陽の出てる方が南だからね、穴抜けの紐は10本くらい持ち歩かなきゃ駄目だよ、飛行ポケモンつれてないときはテレポートできる子を絶対連れてなきゃ駄目だよ」とか不要に心配されている。

 ……ヒビキの忠告、聞いておけばよかった。

 彼の言葉を思い出して、わたしは思わずため息をついた。飛行要員の子もテレポート要員の子も、今はマサキさんのボックスの中でお休み中だ。ああ、一旦戻って、ちゃんと準備してから出直したいのに。
 夕方には次のポケモンセンターに着くはずだった。だけど、さっき地図を見直してみたら、まだまだずっと先だったのだ。どうやら地図を見間違えたか道を間違えたかしたらしく、思ったより距離があった、というのが敗因。
 さすがは幼馴染、行動を読まれ過ぎている。段々腹が立ってきた。

「あーあ……」
「がにゅ……」

 はあ。思い返して、わたしは溜息をつく。
 今、ジョウトは一年で一番暑い季節だ。特に今年の夏は暑い、気がする。
 あんまり暑いからだろう、チコさんの鳴き声も力がない。
 冴え冴えとした月は、触ったら冷たそうなのに、気温をちょびっとも下げてくれないんだから、見掛け倒しというか、なんというか。

「ああもう、全然眠れない! あつい!」

 不快指数一万!なんてありえないことを呟いて、わたしは跳ね起きた。眠りたいのに、全然眠れない。それどころか、じっとりかいていた汗が背中をつーっと流れるのが気持ち悪くて、目が冴えてくる。ああ、今ほどニューラとかラプラスが欲しいと思ったことはない。イノムーとかルージュラでもいい。
 わたしはもう一度ポケギアを出して、地図を確認した。何度見ても(当たり前だけど)ポケセンは、ずいぶん先のところにある。
 このままじゃ、明日は一日、ヘロヘロになってしまう。お昼までにポケセンに着けるかも分からない。エアコンの効いたポケセンが恋しい。もう泣きそう。

「めが……」
「え?」
「めがにゅ……」

 チコさんがこつんこつんとわたしのポケギアをつつく。
 地図を覗き込んで、小さく鳴いた。

「地図がどうしたの?」
「がにゅ」
「うん?」
「めが、めがにゅ!」
「……えーと。あ、湖?」
「がにゅ!」

 どうやら、『水辺の方が涼しいんじゃない?』と言いたかったみたいだ。いまいち読み取れないマスターでごめんよ、とチコさんに謝りながら、わたしは周辺地図を確認した。
 どうも、ここからさほど距離のないところに、小さな湖があるみたい。チコさんは草の力で、水源を感じ取ったのかな?
 確かに、水のそばの方が涼しいだろう。少なくても、ただじりじりと暑い草むらよりはマシそうだ。

「ありがとチコさん、行ってみようか!」
「がにゅ!」

 わたしは残った空元気を振り絞って、チコさんと一緒に立ち上がった。

「……はぁ、生き返るぅ。チコさんえらい、超えらい」
「めがにゅ!」

 それから15分後。
 わたしとチコさんは湖に脚を突っ込んで、ぼんやりと空を眺めていた。
 水辺の風は涼しくて、ひらけた空には銀色の満月が煌々と輝っている。それが水に映ってキラキラ、まるでイルミネーションみたいに光るのだ。月の光はわたしとチコさんの周りを、青く明るく照らしてくれる。なんだか本だって読めそうなくらい。

「みんなも出ておいで、涼しいよ」

 わたしはチコさん以外の子たちをボールから取り出した。
 アリゲイツになったばかりのニノちゃんと、まだヒノアラシのアラシちゃん。すっかり立派なルカリオになったリヒャルトと、おしゃまでいたずらっ子なエーフィのジンジャー。それから、のんびりやさんの、ヌオーのしおんちゃん。いつものメンバーはバトルでもないのにってびっくりしたみたい。でもすぐに、わっと歓声を上げて、わたしの周りに集まってきた。みんな、思い思いに伸びをして、気持ちよさそう。ニノちゃんとしおんちゃんは、一目散に水辺に駆けて行く。

「今日はきれいなお月様だねえ」
「がにゅ」
「ふぃっ」

 チコさんもジンジャーも、目を細めてうっとりしている。リヒャルトは目を閉じてじっとしてるけど、月の光を身体で感じているのかもしれない。アラシちゃんは眠そうにあくび。まだおちびちゃんだもんね。

「ひの……」
「眠い? ……って眠いよね、もう遅いもんね。チコさんも、そろそろ眠い?」
「……めが」
「……ここ涼しいし、いいかげんに寝よっか。……みんな! わたし寝るよー! 遊んでてもいいけど、あんまり遠くに行かないでね!」

 湖の方から、ニノちゃんとしおんちゃんの鳴き声が聞こえた。二匹とも水ポケモンだし、ずっとボールの中にいたから、今は眠るより水と遊びたいみたい。
 タオルケットを広げたわたしの横に、ヒノちゃんとジンジャーがもぞもぞ擦り寄ってくる。チコさんはわたしの後ろで丸くなった。リヒャルトはまるで護衛の人みたいに、ちょっとだけ離れたところで目を閉じて座っている。
 ごそごそとタオルケットに潜ると、ゆったりとした空気がやってくる。ああ、やっと眠れそう。涼しいってすばらしい。

「ふあ……おやすみ、みんな」
「めがにゅ」
「ふぃっ」
「ひのー……」

 ガサッ。

 眠りに落ちそうになった瞬間、かすかな物音が藪の向こうで響いた。それに反応したリヒャルトが飛び起きる。わたしはタオルケットの中で、体を硬くした。
 目を眇めたリヒャルトの耳がぴくぴく動いて、何かの気配を探っている。そして、湖を向いて、ザッと身構えた。わたしは思わず、ジンジャーを抱きしめる。この子たちがいれば、怖いものなんてなにもない。だけど、なんだろう、胸が騒ぐ。
 ざわざわと、肌が粟立つ。まるで、伝説のポケモンたちに、対峙した時のような。

 ――何かいる!

「ふぃぃっ!」

 警戒するように、ジンジャーは高く鳴いて起き上がり、わたしの腕の中でバトル開始のポーズをとった。チコさんも険しい顔で、触角を動かす。そう、いわゆる、臨戦態勢ってやつ。空気がピリピリして、肌を刺すみたい。鋭い雰囲気に、わたしも思わず、一撃目の指示を考える。

 だけど、ちいさいアラシちゃんだけは違った。不思議そうに首を傾げ、わたしたちの目の前をてぽてぽと歩きだしたのだ。

「アラシちゃん!?」
「ひーの!」

 慌てて追い縋ると、アラシちゃんは笑うようにのびをして、背丈の低い木の向こうへと、身を乗り出した。
 がさりと大きな音が立つ。わたしはアラシちゃんを抱えあげようとして、動きを止めた。

「ひのっ!」
「ばう?」
「……えっ!?」

 潅木の向こうにいたのは、大人の男の人程の大きさの、毛並みの綺麗なポケモンだった。その背で瞬くのは、煌々と輝く月に負けない、赤々と燃える炎。戦いの時はまさに烈火なのだけれど、それが今は、穏やかに揺れている。
 凛々しい赤い瞳と、深い藍色の美しい、炎を司るもの。

 ――バフクーンだ。

 前に博士に聞いたところによると、バクフーンは、メガニウムやオーダイルと並んで、とても珍しいポケモンらしい。
 野生で出ることはほとんどなくて、生息地がどこなのかも分かっていないそうだから、ある意味幻のポケモンと言えるのかもしれない。確かに、研究者の人たちがヒノアラシをどこかからか手に入れてくるだけで(ほんとに不思議だ、どこからつれてくるんだろう。もしかして、海の向こう?)、わたしも外では見たことがない。
 つまり、野生のバクフーンなんて、こんなところにはいないのだ。そう、バクフーンのいるところ、マスターあり、なのだ。

 とても鮮やかな赤の、けれども不思議と涼しい目をしたそのバクフーンに、わたしは見覚えがあった。
 この子が慕うマスターのことも、多分、よく知っている。

 バクフーンよりももっと綺麗な赤の、炎みたいな瞳をしたひと。

「えーと……シルバー君のバクちゃん?」
「ばくふー」

 こんばんは、とでも言うように、バクフーン――わたしは勝手にバクちゃんって呼んでるんだけど――は目を細め、礼儀正しく頭を下げる仕草を見せた。
 そうか、とわたしは理解した。ヒノアラシは進化すれば、バクフーンになる。アラシちゃんは同族だから、バクちゃんだってすぐに分かったのだ。

 見知った姿に警戒を解いて、リヒャルトが力を抜いた。
 ジンジャーもまるでため息を付くように、ふわっとあくびをして伸びをする。声が聞こえたならきっと「なんなのよー、人騒がせねぇー」なんて言っていたに違いない。
 わたしも大きく息を吐き出して、ジンジャーと一緒に力を抜いた。あーあ、変に気を張って、損しちゃった。

 ………………って、ちょっと待ってよ?

「バクちゃんがここにいるってことは……」

 脳裏で何かがひらめいて、わたしはバクちゃんへと目をやった。
 わたしの問いに、バクちゃんが薄目を開ける。頷くように、首を回した。
 視線に促されるように、木々の向こう、月の映った湖面に目を投げる。

 パシャン!

 銀色の、キラキラした、きれいな月の光。
 それが当たって、万華鏡を覗いてるみたいに、夜空よりも輝いて見える水面。
 水の弾ける、爽やかな音の中に、影。

 そう、バクフーンのいるところ、マスターあり……で……

(やっぱ…り……?)

「こら、暴れんな! お前な、そんな泥だらけじゃお前だって嫌だろ!」
「にゃっ!」
「平気、じゃねえ!! っこらひっかくな!」

 パシャ……パシャン!

(……え)
 

 涼しい音が聞こえるけれど、なんにも頭に入らない。
 目の前は見えているのに、それがなんなのか、ちゃんと分からないんだ。
 びっくりしすぎて、頭が考えることを放り出しちゃったみたい。

「にゅ……」
「謝るくらいなら暴れんな……」

 だって。だってだって。だってだってだって。

(な……なななななんで、ふ、服着てないの……!?)

 腰のあたりまで水に使ったシルバーくんの上半身は、日にあたらない所為か、はたまた月の光の所為か、水を跳ね返して真っ白に光っていた。
 嫌そうに、しょんぼりと洗われているニューラを抱え上げている、いつも見えないむき出しの腕とか、夜光にキラキラ瞬く水滴が伝う胸とか、細いくせに結構ちゃんと筋肉ついてるし……ってわたしってば何を見てるのよ!

「ったく、最初っから大人しくしてりゃ、すぐ終わるのに」
「にゅ……」
「ほら、耳ん中の泥、落ちたか?」
「にゃ!」
「これに懲りたら、泥遊びなんてすんじゃねえぞ」
「にゅ…………」

 よし、そう言ってシルバーくんは、めったに見せない顔で口の端を上げた。それからニューラの頭をぽんと叩く。

 その顔から目が離せなくなって、わたしは呼吸さえも忘れた。

 水の中なら、服を着てなくて当たり前。お風呂覗いてるようなものだもん、覗き見なんてしちゃいけない。自分がされたら、すっごく嫌だ。そう分かっているのに、考えれば考えるほど、わたしの目は一点から離れられなくなる。

 どうしよう、こんなの、わたし、変態みたいじゃない!
 どうしよう!

 完全に「こおり」状態になってしまって動けない、かちんこちんのわたしの腕の中で、ジンジャーはぐぐぐと伸びをした。それから彼女は笑うように、「ふぁっ」って鳴く。
 ――なっさけないわねー、って、言うみたいに。

 そして、おもむろに。

「ふぃあっ!」

「あっ、こらジンジャー! だめっ!」
「なんっ…………………………コトネ?! っておい! そっちは深……」
「ひゃあああああああ!!!」
「バカっ!!!」

 どぼーん。

 わたしの腕から飛び上がったジンジャーを追いかけて、潅木の向こうに飛び出した瞬間、マンガみたいなことが起きた。

 ものすごい水柱を立てて、わたしは思いっきり、水につっこんだのだ。

「……お前なあ……バカだバカだと思ってたけど、ここまでか!!」
「ご、ごめんなさああい!!」

 私は地面に正座して、ひたすらぺこぺこ頭を下げていた。
 真向かいではシルバー君が、真っ赤な髪をガシガシと拭きながら、カンカンになって怒っている。
 ――怒って当然だ。

 おもいっきり水柱を立てたわたしは、次の瞬間シルバーくんにすくい上げられた。
 洗っていたニューラを肩に乗せて、わざわざ、落ちたわたしを助けに来てくれたのだ。
 まさか助けてくれるなんて。肺に入ってしまった水のせいで、胸は焼けつくように痛かったけれど、咳の隙間でわたしは、ちょっとうれしいな、なんて考えてしまった。
 それがよくなかったのか(いや、単純にわたしの馬鹿な行動に嫌気がさしたのだろうけど)、シルバーくんの、ボルテッカーを超える雷が、見事なまでにどっかーんと、わたしの上に炸裂したのだった。
 ああ、君の声で耳が裂けちゃいそうだよ。

「しかも着替がないってどういう事だよ!!」
「ええと、いつも、ポケセンでパジャマ借りてる間に、洗濯してるから……」
「あのなあ! お前、普通のヤツより遥かにどんくさいんだぞ!? 自覚ねえのか!」
「ご、ごめんなさいっ」
「お前は着替を3セットくらい持ち歩け! 義務だ!!」

 ばかみたいに上擦った声が出て、情けなくて泣きたくなる。
 ちらりと横目でジンジャーを見れば、シルバーくんのニューラにちょっかいを掛けて、楽しそうに遊んでいた。
 ああもう、誰のせいだと思ってるのよう!!

「聞いてんのか!!」
「ぜっ、善処、しま、す」

 わたしは自分の膝の上をぎゅっと握りしめた。慣れない肌触りのグレーの生地は、きゅっとわたしの手の中で皺になる。わたしは慌てて、指を離した。

 そう。

 わたしは今、グレーのパンツと黒いTシャツ、紺色のジャケットを羽織っている。

 つまりはそういう、こと、でして。

「……もういい。バクフーン、どうだ、調子は」
「ばくふー」
「朝には乾くか」
「ばう」

 頭のてっぺんから足の先まで、一分の隙もなくびしょ濡れになったわたしの服は、ただいまバクちゃんの背中の上。
 全裸で待っているわけにもいかなくて、タオルケットにくるまって震えていたら、シルバー君が自分の服を、上下どころかインナーまで貸してくれたのだ。その所為で、シルバーくんは、トランクスにバスタオル、というお風呂上りな格好になってしまった。

 わたしは申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、自分が身につけた、シルバーくんの服を眺めた。微妙に大きい、鎖骨がはみ出しちゃうくらいの襟ぐりのTシャツ、ほんのちょっぴり丈の余る袖、完全に丈が余って、足首のあたりでもたついちゃうパンツ。ちゃんと男の子なんだなあって感じてしまって、なんだかすごく気恥ずかしい。
 それから、一番どうしていいのか分からなくなっちゃうのは、わたしをとりまく、シルバーくんの香りだ。本人の服なんだから当たり前だし、他の人の匂いがしたらそれはそれでびっくりするけど、どっちにしても、なんだか猛ダッシュでここから逃げ出したくなるのは、なんでだろう。
 どうしよう、ドキドキする……じゃなくて、百回謝ったって足りない。

 ああ。
 穴があったら入りたいって、こういう状況のことを言うのね。
 ディグダに地球の反対側まで、深い穴を掘って欲しい……。

 シルバーくんは、落ち込むわたしに目を向ける事なく、濡れた髪を拭いたバスタオルを、マントのように肩から掛けた。
 情けなさにつんとした目の奥をごまかそうとして、わたしは慌てて目を閉じる。
 考えれば考えるほど恥ずかしい。もう消えたい。ホントにわたしは、何をやってるの。
 バカだバカだ、こんなんじゃ、バカって言われても反論なんてできっこない。
 なんでいつも、迷惑かけることしかできないのかな。

「……おい。起きてても乾かねえぞ。とっとと寝ろ」
「え……」
「オレは寝るからな」

 気がつけばシルバーくんはこちらを向いて、不思議そうに首をかしげていた。
 バクちゃんに寄りかかって、大きなバスタオルを広げている。その横にはニューラが、ぴったりとくっついていた。

「あ、うん。おやすみ」
「ああ。朝んなったら服返せよ」

 ふたことみこと、バクちゃんにささやいて、シルバーくんは目を閉じた。
 あっという間に、静かな寝息が聞こえてくる。

 ……なんでこんな状況で、あっさり寝られちゃうんだろう。

 わたしはほとんど泣きそうになりながら、チコさんに寄りかかってタオルケットにくるまった。恥ずかしいのと情けないのとで、現実を忘れてしまいたいのに、すっかり焼き付いてしまったシルバーくんの残像が、まぶたの裏側ずっと残っている。目を開いていても閉じていても見えるものが同じなんじゃ、どうしようもないじゃない!

 包み込まれるような香りに、結局、一睡もできなくて。
 バクちゃんみたいに真っ赤になってしまった目を見たシルバーくんに、ぎょっとされてしまうのは、また別のお話。