縁寿にて

 
 コトネがホウオウを呼び出してからずっと、マツバは鈴の塔を見上げていた。

 どこからともなく現れ、何かに導かれるように塔の上に宿った大鳥は、太陽のように燦然と輝いて、夕暮れの街を昼間のように照らしている。虹色に輝くポケモン、と聞いてはいたが、現物を目の前にしたマツバは言葉を失い、ただただそれを見つめるだけだった。
 虹色。輝く。何度となく口にしてきたそれらの言葉は、ホウオウに対してあまりに陳腐な表現に感じられた。その存在はもっと貴い。神々しいという言葉さえ、安すぎる。

『別に手持ちにしたいわけじゃないんですけど』
『なんか、呼ばれてる気がするんで行ってきます』

 呼ばれる、か。

 誰に聞かれる事もなく、マツバは小さく呟く。
 幼い頃からずっと焦がれ、側に行くことを夢見た伝説のポケモン。
 伝説の、というよりも神々に近いその存在に選ばれる事を願って、修行に明け暮れた。

 その結果身につけた千里眼だが、それはホウオウを見ることはなく、彼が呼ばれることもなかった。

 どうして自分ではなかったのだろう。
 何がいけなかったのだろう。

 なぜ、あの少女が選ばれたのだろう。

 子供の無垢な魂でなければ駄目だったのだろうか。
 それならばなぜ、自分の幼い頃にホウオウは現れなかったのだ?
 ――つまり、子供だからではない、彼女だからなのだ。

 では、なぜ。

 マツバはホウオウを見つめながら幾度となくその問いを自分に投げかけた。
 もちろん、答えなんか出やしないのだが。

 やがてホウオウはその輝きをおさめ、コトネの手にしたボールの中に吸い込まれて、そして消えた。
 街は唐突に夜を迎え、街灯の煌めきが急に力を増した。
 マツバはそれを煩わしく思い、瞳を閉じる。

 瞼の裏には、ホウオウの収められたボールを手にした少女が、塔を降りてくる姿がぼんやりと映っていた。

「ついに手に入れたんだね」
「あ、マツバさん。こんばんは」

 ホウオウを手にしたというのに、コトネは何も変わらず、いつものように微笑んで挨拶を口にした。

「君は凄い。ルギアばかりかホウオウまで従えるなんて」

 並大抵のトレーナーにできることではない。
 一般のトレーナーでは、その存在に圧倒されて、おそらく対峙することすら出来ないだろう。
 ジムリーダーのマツバでさえ、言葉を失って見つめることしか出来なかったのだ。

「したがえる?」

 コトネはマツバの言葉にきょとんとし、その大きな瞳を見開いた。琥珀の色をしたそれは純粋な驚きに満ちていて、マツバは首をかしげる。自分は何かおかしな事を言っただろうか。

「したがえたわけじゃないですよ」
「でも、君の投げたボールに収まったんだ」

 今、ホウオウは君のものだ。

 誰しもが考える事をただ口にしただけなのに、コトネはひどく驚いたらしかった。
 口元に手をあて、反対側の手でボールを目線まで持ち上げる。

「たまたまだと思いますけど」
「……たまたま?」
「ちょっと気に入ってくれたのかもしれないですけど、多分それってホウオウの気まぐれですよ」
「……気まぐれで捕獲されちゃ、たまったもんじゃないなあ」
「だって、神様みたいなものですよ? そりゃあ、貴い生き物だとは思いますけど」

 神様が、気まぐれ以外のなにで動くというの?

 当たり前でしょう、と言いたげに、コトネは首を傾げた。マツバにはコトネの理論が分からない。
 君はホウオウに選ばれたんだ、それは素晴らしいことだ、君はもう、ただのトレーナーじゃない。
 ――その賛辞がどうしてか、彼女の中に響かないのだ。

「あの、マツバさん」

 コトネはホウオウを収めたボールをカバンに仕舞い、帽子をかぶり直してニコリとした。

「これは、ママの受け売りなんですけど、神様って祟るんですよ」
「……祟る?」
「気に入れば願いを叶えてくれるし、気に入らなければ祟るんですって」
「……ホウオウが、かい?」
「神様が、です」

「しかも、たいてい気まぐれに。神様ってそういうものなんだって、ママは言ってました。――まあ、ホウオウは、命を司る、優しい神様なのかもしれないですけど」

「神様っておもしろいことが好きなんですって。だから多分、なんとなく飽きたら、ボールを出てどこかに行ってしまうんじゃないかなって思います」
「……コトネちゃんはそれでいいのかい」
「神様ですから」

 あっけらかん、とコトネは言い、長引いちゃったからお腹すいちゃいました、と笑う。

「マツバさんはホウオウに会ったら、どうしたかったんですか? 自分の手持ちにしたかったんですか?」

 コトネはいつもの温度でそう聞いた。

 その瞬間に、マツバは理解した。それはもう、悟りに近かった。
 彼女は全てのポケモンに対して、対等なのだ。おそらく、神と崇められるホウオウも、どこにでもいるズバットも、彼女の中では並列だ。ホウオウだけを尊ぶのではない。

 おそらく、そうでなければならなかった、のだ。

「……会ってみたかった、だけ、かな」
「え?」

 マツバほどホウオウを思えば、ともに戦うなど、とてもできるわけがなかった。観賞用に愛でる、愛玩するなど、もっての外だ。けれども、ホウオウにとってはそれこそがもっての外だろう。見定めたトレーナーと共にあるならば、時に戦い、語り合い、そうしてともに歩むのでなければ、無意味なのだろうから。

 マツバの言葉に、コトネはきょとんと首をかしげていた。マツバはそうだな、と言葉を続ける。

「例えば、コトネちゃんが誰か有名人のファンだったとして。一度会ってみたいと思ったりはするだろう?」
「はい」
「でも、会ったからって、恋人になりたいとか、結婚したいとか、そういうのとは違わないかな?」
「ああー!」

 なんとなく理解、です! コトネは元気に片手を上げた。
 つられたように頷いて、マツバは「そういうこと」と言葉を添えた。

「しかし、捕獲劇はすごかったね。素晴らしいトレーナー技だったよ」
「ありがとうございます! ……って見てたんですか恥ずかしい!」
「いやー、雄々しかった雄々しかった」
「やめてくださいよー。でも確かに緊張してたから、怖い顔してたかもしれません。……緊張しすぎて、よけいにお腹すいちゃいましたもん」

 子供らしく笑うコトネに、マツバも笑った。 笑うことが、できた。

「よっぽどお腹がすいてるんだね。なにかご馳走しようか」
「え、いいんですか!」
「君はホウオウを見せてくれたからね。そのお礼だよ」

 ラーメンがいいです! エンジュラーメン! 隣でぴょこぴょことはしゃぐ少女を、マツバは笑って眺めていた。

 けれど、次の瞬間、マツバは息をのんだ。
 コトネの鞄の奥に収まっているはずのホウオウが、まぶたの裏に浮かんだのだ。

 生まれて初めて「見えた」ホウオウは、屋根の上に現れたときと寸分違わず、太陽のように輝き、眩くきらめいている。……けれどもホウオウは、母のようなあたたかさを感じさせながら、マツバを見て、いたずらそうに笑っていた。
 ああ、とマツバも笑い返す。

「マツバさーん?」
「ああ……ごめんね、ラーメンでいいのかい?」
「ラーメンがいいです! エンジュの美味しいんだもの」

 マツバは前を向き、今にも走り出しそうなコトネの背を追う。
 それに満足したように、幻視は柔らかく消えていった。