かなしいおはなし

 トウコが泣いている。悲しい物語りを読んだのだという。
 泣くのならば読まねば良かろうとNは考えるのだが、そういうことではないのだと、トウコは言う。
 そうしてNは考える、それを読めば彼女と同じく自分も泣くのだろうか、と。

 Nは「小説」を読んだことがない。数多の文献、人類の知識の結晶である論文、分厚く重たい百科事典、あらゆる言語の辞書、そういったものならば誰よりも読み、記憶しているという自負があったが、叙情的なそれとなると、Nにはなにひとつとして見当がつかなかった。なにぶん、世界に煌めき散らばる「ひとのこころ」であるものは、永らく彼の生から隔てられていたので。

 Nはひとのこころに疎かった。例え学術の書であっても、情熱に任せるがごとく語られる論には、嫌悪を覚えるほどだった。「彼」は「ひとのこころをもたぬばけもの」とNをして評したが、他者の心を慮ることが「ふつうのひと」であるならば、それもやんぬるかな、そう思う節が無いでもなかった。
 けれど、「疎い」だけで「なくはない」のだと、Nは知った。
 ポケモンたちが持つような、清く優しい素直な心を持つひともいるのだと、ひとを思いやるこころは、驚いたことに、N自身の中にもあったのだと、今のNはぼんやりながら知っている。それはすべて――隣で涙ぐむ彼女がためだ。

 だってほら、こんなにも。所詮は造られた嘘の「物語り」だというのに。「嘘」の登場人物にさえ涙する彼女のこころが、なにかに滲みて、Nの心臓が痛むのだから。

「そんなに悲しい物語りだったのかい」

 Nがそう問えば、トウコは驚いたように顔をあげ、その鮮やかな空色の瞳を瞬かせた。つう、と一筋、雫が伝う。こんごうだまの輝きよりもまばゆいそれに、Nは顔をしかめた。心臓が、また軋む。

「うん、悲しかった」

 トウコの返答は短く要領を得ない。もっと長く話して貰わなくては理解ができない、Nはそう思うが、トウコは言うのだ。
「そうだけど、ねえ、会話は交互に行うものよ。そうして少しずつ真相にたどり着くの」「そういうものかい」「賢い貴方にはまどろっこしいばかりかもしれないけど、それが会話の楽しみよ。一息に話したら、それで終わっちゃう」「だけれど時間が惜しいだろう」「ほらまた早口。惜しむほど時間に追われている? わたしたち」
 時間はいくらでもあるじゃない、トウコはそう笑うのだ。
 だからNは、なけなしの忍耐を振り絞って、彼女を急かさずにまた問いかける。

「いったいなにがそんなに悲しいんだい」
「悲しい恋のお話だったのよ」
「恋? よくわからないな」
「ふたりでいると楽しくてうれしい、そんな子供時代を過ごしたふたりが、わけあって一緒にいられなくなる、そういうお話だったの」
「フウン?」
「ふたりはお互い一緒にいたいとずっと思っていたのに、許されなくてさようならをするの」
「それで?」
「離れ離れで、お互いに別の人と人生を歩みながら、時々相手のことを思い出して、それでも会うことはできなくて」
「うん」
「ついに再会したその時は、彼女の人生が終焉を迎える、ほんのひとときまえだった」

 トウコはまたひとしずく、ぽたりとしらたまの涙を零した。

「彼女は幸せそうに息絶えたの。それを見て、彼は嘆きながらそれでも自分の家族の元へ帰っていった。……ねえ、あたし、堪らなかったのよ。別れて暮らすうちに別々の道が拓かれて、そこにはきっと幸せもあったのだろうけど、それでも堪らなかった」
「トウコ」

「だってあたしたち、そうなったかもしれなかった!」

 トウコは瞳を閉じ、光り無い瞳をまたたかす、Nの胸元に飛び込んだ。Nは尻餅をつき、けれども腕の中に宿った、細く柔らかい存在の背に腕をまわす。どうしてか、そうしなければならないと理解できたので。

「あのままあたし、貴方に会わなくて、貴方もあたしに会わないまま、あのさようならで断たれていたら、そうなったかもしれなかった! あたしは誰かに出会って家庭を築きながらあなたのことを時たま懐かしむ、そんな暮らしをしていたかもしれなかった!!」

 Nは、受けた衝撃によって回転の鈍った頭を働かせ、その光景を想像しようと努めた。トウコの隣に誰か(今浮かんだのは、チェレンというあの眼鏡の青年だったけれども)が立ち、トウコの足元にトウコに良く似た幼子がしがみついて、じっとNの方を見つめているいるのを。
 想像は容易かった。難しいことなどなにもない。未来を見ることに比べれば、息をするように簡単だ。けれどもその「安易な想像」は、彼が予測できた範疇を越えて、Nの表情を歪ませた。理由はわからない、だけれどもそれは酷く――苦しい想像だったのだ。
 Nは気付かぬ内に、腕に力を込めていた。

「そう思ったら泣いてしまったの。こどもみたいね、あたし」

 トウコは微笑もうと努めて失敗し、Nに縋り付く。Nは、握り締められた己のシャツをちらりと眺め、小さく息をして、トウコの涙を胸元で拭った。

「トウコ」
「トウコ」
「泣かないで」
「ボクは今ここにいる。そんな未来は訪れちゃいない」
「ボクの目にみえたこともない」
「ねえトウコ」
「トウコを泣かすそんな本あとで破いて燃やしてしまうから」
「だからトウコ。泣かないで」
「キミの涙は毒薬なんだ。ボクの心臓を軋ませる」
「ねえトウコ」
「苦しいんだ。呼吸が出来なくなりそうだよ」
「トウコ。お願いだからボクを殺さないでくれ」

 人よりも滑らかに回る思考をなぞっているのか、彼は早口だ。今日は常より一層早い。
 トウコの返答を待つことなく、Nは言葉を続けた。

「ああごめんやっぱりボクは会話ができない。言葉が止められないんだゴメンねトウコ。お願いだから笑ってよ」

 トウコは目を見開いて、Nを見上げた。

「いやだ、どうしてあなたが泣いてるの」

 トウコは困ったように笑った。それでもそれは笑顔にほかならなかったので、ようやくNの心臓は、通常の動きを取り戻す。

「Nは優しいね、だからあたしの気持ちなんかにシンクロしちゃうんだ」
「優しいとは思えないけれどね」
「優しいから、あんなことしたのよ」
「そうかい」
「自分のことは自分が一番分からないものなんじゃない?」
「……それは、そうかもしれないな」

 いつになく歯切れの悪いNの台詞に、トウコはNの涙を拭い、首を傾げる。Nはばつが悪そうに眉根を寄せ、頬に触れていた指先に、自分の指先を絡めて引き離した。

「N?」
「……なんでもないんだ、気にしないでくれ」

 つぶやきながら、Nは回していた腕に力を込めた。
 トウコは何も言わず、ただ身体の力を抜いた。

 そう、自分のことは自分が一番分からない。まったくもってその通りだ。
 Nには、自分の心臓が軋んだ理由が分からない。己が流した涙の意味も分からない。己の中に湧き上がった衝動の原因も、理解できなかった。それでも――この温もりを、今しばらく、腕の中に閉じ込めておきたい、そうは思うのだ。……まったくもって、理解し難い。

 そうしてNは瞳を閉じて、啜り泣くように、呟く。

 その本を今読んだなら、きっとボクも泣くのだろう、と。