夜のめざめ

 目が覚めたのは、外が騒がしかったからだ。

 ボクはソファにはみ出しながら横になっていたのだが(最初は狭いと思ったけれど、2日もすればすっかり慣れた。ゾロアークに言わせれば、どうやらボクは、丸まって眠る癖があったらしい)、この轟音には、さすがに目覚めぬわけにはいかなかった。旅に出たばかりのころはほんの些細な物音でも、みんなと同時に飛び起きていたのだから、それに比べれば随分と鈍ったと言えないこともなかったが、ヒトによってはこの爆音でも、寝返りひとつ打たないだろう。ボクは音源を探し、首をもたげて窓を見遣った。紫色の閃光が、白い布の隙間から、部屋に激しく突き刺してくる。
 ――ゼクロムじゃあなさそうだ。光の色にそれを悟り、ボクは安堵して再び横になる。彼がボールの中の時を持て余し、外に出ていたというのならば大問題だが(もっとも、ゼクロムは未だかつてそういうことをしたことはない。彼は規律を重んじる、厳格なポケモンだ)、この、彼の電撃に良く似た光は、彼のものではなかった。

 そう、窓の向こうは雷を伴う豪雨だったのだ。耳を澄ませば、雷鳴の合間にバラバラと、何かが大地を打つ音が混じって聞こえた。旅の最中にはあまり喜ばしくない、聞けば少しく落胆する音だ。しかし、ここは雨を避けた洞窟ではない。雨漏りのする山小屋でもないし、濡れた身体を抱えてトモダチと震えている、野ざらしの遺跡でもない。風はなく、空気は暖かで、身体は乾燥している。そうなれば、雷鳴も雨音もただの子守唄でしかない。
 ボクは息をつき、いつの間にか下に落ちていた毛布をたぐり寄せ、そして気づいた。

 壁の間際に、ざわざわと、生き物の、気配。

 薄暗がりにボクは目を凝らす。ボクの目は夜に生きるポケモンほどには利かないが、それは時折炸裂する雷光が手助けしてくれた。壁際には、たしかトウコの寝台と、彼女が買ってきた観葉植物が置いてあったはずだ。でも、その記憶と視界の眺めは一致しなかった。……まるい、塊?
 じっと目を見張っていたボクに何かの気配が訴える。そしてそれはゴム毬のように弾み、ボクの胸元にポン、と転がり込んだ。ボクはそれを両手で掬い上げる。やわらかくてあたたかい、ふかふかしたいきもの。

『えぬ、とうこがたいへんなの!』

 ボクの手の中では小さなゾロアが、今にも泣きだしそうに震えていた。先週タマゴから孵ったばかりの、トウコのゾロアだ。ほかの子よりもほんのちょっぴり耳の先が鋭く尖っていて、トウコの手入れがいいのか、つやつやしている。ニンゲンだったら『美少女』、というのだろう。そう、女の子だ。
 彼女は吊り上った大きな目に涙をいっぱいにうかべていた。たいへん、そう言われてボクの背が泡立つ。慌てて体を起こせば、一瞬の雷光の中、壁際に丸まっている塊の周りに、トウコの仲間たちがぐるりと集まっているのが見えた。体の大きなジャローダやレシラムはさすがに居なかったが、旅の初めからいっしょだったというレパルダスやウルガモスが、おろおろと、塊の周りを行ったり来たりしている。

「トウコがどうしたの?」
『とうこぶるぶるふるえて、ぽろぽろないてるの』

 助けてあげてよう、小さなゾロアはぽろぽろ泣いた。ボクよりずっと情緒が豊かなのは、トウコが育てているせいだろうか。やはりポケモンも、「親」に似るものなのか――一瞬そんなことを取り留めもなく考え、ややあって急ぎ立ち上がった。それどころではない。

「トウコ?」

 毛布を投げ飛ばし、塊に駆け寄る。今ではボクにもわかっていた。
 この塊はトウコが潜り込んだ毛布だ。

「具合でも悪いのかい」
『違うわ』

 トウコのレパルダスはボクに気づくと、困ったように小さく鳴いた。それを聞いて、ボクは思わず目を見開く。……なるほど、そういうことだったのか。

『子供みたいで困ったことでしょう』
「でも仕方がない。誰にでも苦手はある」
『いつもこうなのよ』
「外でもかい」
『ええ、外だともっと大変』

 レパルダスの口調には、苦笑と愛情が滲んでいる。つられて小さく笑い、ボクは塊にそっと手を伸ばした。キュ、塊の横に張り付いていたメラルバが、これまた泣きそうな顔でボクを見上げる。

「大丈夫だよ」
『ほんとう? とうこだいじょうぶ?』
「こういうニンゲンもいるらしいんだ。キミは平気かい」
『へいき。えぬはへいきなの』
「ボクは平気だよ」

 ぴょこん、ボクの腕から飛び降りたゾロアが、メラルバに擦り寄る。もこもことした幼い二匹はキュウキュウと鳴いて、それから毛布に体をすり寄せた。それからわたわたと危なっかしく寝台を降りようとするものだから、ボクはメラルバとゾロアを抱え、床へと降ろしてやった。すると二匹は飛ぶようなスピードで、部屋の向こう側へと飛んでいく。レパルダスとウルガモスはいつの間にか、ボクが寝ていたソファの上に移動していたらしく、そこへと駆けていったらしい。

 4匹が安心したようにソファで丸くなったのを見て、ボクは彼女たちに渡された信頼を、重々しく受け止めた。ほんの数日共にいただけでこれほどまでに警戒を解き、信頼してくれるのは、やはりトウコのポケモンだからなのだろうとぼんやり思う。無用心なと思わないこともなかったが、それがトウコの良さなのだとも、今のボクは知っていた。

「トウコ」

 ボクはゆるく拳を握り、改めてトウコに声を掛けた。けれどその瞬間に雷鳴が轟いて、ボクの些細な声をかき消す。ボクはもう一度声を上げた。

「トウコ」

 毛布に指をかけると、塊はぴくりと動いた。更に重ねて名を呼べば、もぞもぞぶるり、塊は震える。けれども瞬間、またしても怒号のような雷鳴が鳴り響いて、毛布の塊はより一層小さく縮こまった。
 ボクは仕方なしに、毛布の塊にかけていた指に力を込めた。小さく息を止め、吐き出す勢いで一息にめくる。すると、毛布の内側の暗がりで、大きく見開かれた真っ青な瞳がふたつ、驚き色でこちらを見ていた。ボクは視線を合わせたまましばし静止し、それから思わず噴出す。トウコときたら、汗だくになっていた。

「トウコ、暑くないの」
「あ、あつい、け、ど、それより……ひゃあああ」

 ピカッ、カーテンの向こうが光り、トウコは慌てて耳を塞いで、シーツの上に突っ伏した。その姿は、嵐に怯えて洞窟に集う野生のポケモンたちと何ら変わることはなく、人もまた生物であるのだと、ボクに強く意識させる。同時に、僅かに驚きもした。

「トウコ、雷が苦手なんだね」

 顔を耳元に寄せてそう問えば、ガラガラと響く轟音の中、トウコはまさしく「必死」といった体で首を縦に振った。

「知らなかった。でんきタイプもダメなのかい」
「ぽ、ポケモンは平気なの……」

 技は避けようがあるから怖くない、と宣う。なるほどと思いながらそっと腕を伸ばせば、幼子のようにすがりつかれた。余りの勢いに、ボクのほうがひっくり返る。ごつんと頭を打ち、痛みに顔をしかめてそのままずるりと落ちた。いわゆる「押し倒された」形だ。

「トウコ、痛い。それから苦しい」
「ごめん……お願い……ちょっとだけこうしてて……」

 息苦しさを訴えても、トウコはボクの上からどいてはくれなかったし、その腕の力も緩まなかった。
 ボクは細く息をつき、仕方なしに腕をトウコの背へと回した。こうしていれば、多少なりとも音は小さくなるだろう。轟音がもたらす振動も、伝わり難くなる。
 バリバリバリ、紫色の光が、ガラスの向こうで瞬く。その音を聞くたびにトウコはぎゅうぎゅうと小さくなって、浅い呼吸を繰り返している。なんだか本当の小さな子供になってしまったようだ。
 ボクにはどうにも不思議だった。雷は確かに危険な存在ではあるものの、部屋にいれば、さしたる危険はない。窓から眺める雷光は美しいと言えるし、瞬く稲妻のもたらす電気エネルギーやその式に思いを馳せれば、心踊るほどだ。ボクにとっては、恐ろしさなどなにもない。
 それなのにだ。美しき白の竜・レシラムを従えあれほどに凛々しく戦ってみせたトウコが、こうして雷ごときに怯え、震えている。あれほどまでに強い瞳をしていた女の子が、こんなにも小さくて、温かくて――ボクなんかにすがりついて、泣きべそをかいている。鍛え上げたポケモンたちとの絆と信頼でもって、ボクを、そしてゲーチスを鮮やかに倒し、イッシュを『救った』あの、女の子が。

「不思議だ」

 思わずぽろりと呟けば、トウコは震えながら顔を上げた。濡れた瞳が哀れで、ボクは指先でそれを拭ってやる。なにが、と小さな声がボクに問うた。

「トウコが雷に怯えていること」
「どうして」
「キミに恐ろしいものがあるとは思わなかった」

 ポケモンたちを伴っていたとはいえ、歳若い娘が単身で、あの城に乗り込んできたのだ。その方が雷よりもよっぽど危険だったろう。……来いと言った身で言えることでもないし、トウコが来ないだろうとはまさか思わなかったが、それでも。トウコが城に来ず、逃げ出したとしても、それはそれで仕方が無いだろうと、ボクはあの部屋で待ちながら考えていた。それ程にあの頃のプラズマ団は、勢力を増していたし、ボクはゼクロムと共にいて、負けるなどとは思っていなかった――思わないように、していた。
 その根城に乗り込んでくる勇気を持ちながらも、雷というよくある自然現象に怯えて震えている、その矛盾。それがボクには、不思議でならない。重ねてそう呟けば、トウコはきょとんと首をかしげた。

「……全然違うじゃない」
「ふうん?」
「まあ、ちょっとは怖かったんだよ? ……でもあたし、みんなと一緒だったから負けるなんて思わなかった。みんなを信じてたから。だけど」

 窓の外が光り、トウコはまた、小さくなった。

「……雷は、避けられない、じゃない」
「外に出なければ安全だよ」
「そ、そうだけど、眩しいし音怖いし……うひゃあ!」

 バリバリと、ゼクロムの叫びに似た音が響き、トウコはぎゅうぎゅうとボクの心臓を押しつぶす。苦しいよとつぶやいても、頭を振るばかりだ。これでは、初めての世界に怯える生まれたてのポケモンと大差ない。

 それに気がついた時、唐突に、ボクは理解した。
 トウコならなんの心配もいらないと、誰よりも強い心の持ち主なのだと、何者にも負けることなんてないのだと信じていた。彼女は、トモダチといっしょにいたいという、その信念だけを頼りに、小さな体ひとつで巨大な組織に挑むほどの勇気を持った、類まれなるニンゲンなのだとそう、思っていた。
 けれど、それだけではないのだ。誰よりも眩しい英雄だと思っていたトウコは、そうであると同時に、ただの女の子でもあったのだ。雷が怖くて眠れなくなるような、ボクなんかの体温で安心してしまうような、弱さも持っていたのだ。誰もが、ただ一面だけでできているわけではない、のだ。――ボクもそうで、あるように。

 ボクは己の内に潜む衝動がこみ上げてくるのに気がついた。それは、これまで一度だって緩んだことがなかった蓋が、ごとりと音を立てて開いたような感覚だった。そこからなにかがじわじわ染み出して、心臓が痛くなる。生まれて初めてのその痛みは、燃え上がる炎のように熱く、そして痺れを伴っていた。息が、喉が、くるしい。

 相変わらず震えているトウコを支えていた腕に、力を込める。近づいた身体は柔らかくて、温かくて……思いがけず小さくて、頼りなさに驚いた。どくんどくんと脈が荒ぶる。溜息が漏れた。

「雷が止むまで、ね」
「うん……」

 しかたがないからね、と囁く。トウコは目を涙でいっぱいにして頷いた。
 ボクはトウコの柔らかな髪をなでながら、カーテンの隙間に目をくれる。雷光の度合いからして、雷はずいぶん遠のきつつあるようだった。

 ――もう少し、光っていても、いいよ。

 そう思ったことは黙っていることにして、ボクは瞳を閉じる。

 遠雷が、小さく鳴った。