「ボクはこれまでそういった習慣がこの世に存在することを情報・知識としては知っていたけれど体験したことはなかったんだよ。そもそもボクはクリスチャンではないしクリスマスなんて欧州での冬至の祭りの習慣がだね、」
「……ストップ。要約すると『今までクリスマスプレゼントなんて贈ったことがないから、トウコに何を上げていいか分からない』ってことだろ?」
「簡潔に要点だけ述べるとそういうことになるかな」
「……君は掻い摘んで話すのが苦手なんだな」
メンドーだな、とチェレンはため息をついた。
この目の前の青年が、自分を頼ってくることなどそうあるものではない。だが、一体何事か、と身構えたことが馬鹿馬鹿しく思えてくる。
チェレンの目の前でどことなく落ち込んだ空気を漂わせている、淡い緑の髪の青年――Nは、ずいぶんと『濃くて薄い』人生を送ってきた男だ。尋常ならざる事態のために育てられ、凡人では経験し得ない様な大事を引き起こし、伝説のポケモンを目覚めさせるに至った『英雄』で、端正な顔立ちと恐ろしく回転速度の早い頭脳を持つ、反則のような存在である。
だが……いや、だからこそか。ごく普通の人々が当たり前のように享受するであろう『普通の経験』を、彼はほとんどしたことがないのだ。
「クリスマスなんてボクには関係ない辞典の中の行事だったんだ」
Nは静かに呟いて、青みがかった銀色の瞳を持ち上げて、困ったように口角を上げた。
「君の事情は理解したけれど、そういう事は僕よりベルの方が向いてそうだとは、思わなかったわけ」
「彼女には『自分が欲しいと思うものを相手に上げればいい』って言われたよ」
「……もう相談済みなのか」
確かに、女性に贈り物をするのなら、女性に問うのが妥当だろう。経験は乏しくとも賢い青年は、そのあたりの選択は的確に行えるらしい。
チェレンは再び、深いため息をついた。
「それなら、もう答えが出てるじゃないか」
「ボクには欲しい物なんてなにもないんだよ」
さらりと言われて、チェレンは口を噤んだ。
誰にだって何かしら、欲しい物がある。それは物欲に基づくものかも知れないし、愛情のような、目に見えない、形のないものかもしれない。
彼はそれを、「ない」という。
Nの『自分に関する無欲さ』は、チェレンもよく知っている。ポケモンを友と呼び、ただ彼らだけが理解者であったにもかかわらず、彼らの苦痛を第一に考えて、その解放を望んだ男だ。ある種の自己犠牲にも通じる彼の潔さは、いっそ哀しいとチェレンには思えた。
――けれども、彼が唯一欲しいと思ったであろう未来、人生の殆どの部分を占めただろう『夢』を奪った人間が今、彼の隣にいるのだから、人生というものは分からない。
「本当に何もないの」
「ベルに言われて一昼夜考えたんだけどね」
「……人が生きるには、『欲』が必要だと僕は思うけど」
チェレンは眼鏡を外し、眉間に指を当てて首を振った。Nは窓の向こうの光に目を細めて、首を傾げる。
「そうかもしれないね」
「『何かを楽しみにする』気持ちとか、『向上心』だって欲の一種だ。何もないなんてそんなことはないだろう。そういう延長に、何かしら、あるんじゃないのか」
「延長……」
Nは、彼にしては珍しく、思案気な面持ちで深く黙り込んだ。反論にしろ肯定にしろ、有り余る字数で繰り出される常の様子とは程遠く、そうしているとひどく神秘的な人間に見える。
「……分からないな」
「それじゃあもうどうしようもないじゃないか」
「今の暮らしでボクは『満足』だからこれ以上欲しがりようがない」
「無欲だね」
「そうかな」
「僕はそう思うよ」
「自分ではそうでもないと思っているんだけどね」
ああ、強いて言うなら。
Nはつぶやき、今までで一番困った顔で、言葉を紡いだ。
「時間が欲しい、かな」
「時間?」
「一緒にいる時間が」
Nは目を閉じた。
まぶたの裏に誰がいるのか、考えるまでもなく。
「今ボクが幸せだと感じる空間に彼女の存在は不可欠だ。少しでもそれを持続させたいから時間が欲しい。だけど時間なんて上げるものでも貰うものでもないだろう?」
「N」
「なんだい」
たっぷりと間をおいて、チェレンはゆっくりと口を開いた。
なんだ、やっぱり答えは出てるんじゃないか。
「プレゼントとか、なんかてきそうにそのへんでケーキとかアクセサリーとか買っていけばいいから」
「うん?」
「今のを本人に言ってあげなよ」
Nは閉じていた瞳を静かに開き、銀の目をしぱしぱと眩しげに瞬かせた。心底不思議そうだ。
「どうして?」
「言えば分かるよ」
チェレンはにんまり、らしくなく笑ってみせた。
Nの表情には困惑がありありと窺える。チェレンが何を言っているのか、どうにも意図が掴めぬらしい。彼は、そういう『欲』を感じ取る能力を、もうちょっと磨くべきだ。と、チェレンは目線に力を込めた。
チェレンの無言の圧力を感じ取ったのか、Nは細く息を吐いて、「よく分からないけれど分かったよ」と、彼らしからぬ曖昧な言葉をほうった。「分かったらとっとと帰れ」とチェレンはNを追い立てる。ぐずぐずしていたNも、「トウコが心配する」と付け足したら、すんなりと立ち上がった。
「ああ、そうだ」
「なんだい」
「もし、プレゼントに指輪を選ぶなら、さっきのを言ってからにした方がいいよ」
「ふうん?」
「理由は、渡した後にトウコにでも聞けばいいさ」
「参考にするよ」
ほんの僅かにおせっかいを付け足して、チェレンはひらひら、追い払うように手を振った。扉を出て行くNの背に、チェレンは明日の朝の騒動を思い描く。
はたしてそれは、現実のものとなったのであった。