アラベスク

 ベルはじっと、その棚を眺めていた。
 何の変哲もない、ミントブルーのペンキが剥げかけた木の棚である。引き出しの取っ手は華奢な花模様のついた陶器で可愛らしいが、ヴィンテージと言えそうな年代物だ。「蚤の市で安かったんだよー」とか、トウコは言っていたような。
 とはいえ、ベルが眺めていたのは棚自体ではなかった。棚の上、トウコが母親に譲られたという白いレースドイリーの上に並んでいる、陶器のカップだ。
 ベルはまじまじと、そのカップたちを眺める。
 ポケモンたちを模したマグカップならありふれているし、この家にいかにもありそうなのに、そこに並んでいたカップはほとんどが、綺麗な唐草模様だった。マグカップもティーカップもコーヒーカップも、例外なく、オリエンタルな幾何学模様が敷き詰められている。
 左端は白地に鮮やかな青。その隣は、緑の蔓草。もう一つ隣りは綺麗な紅色の薔薇模様で、その隣りは、アラビアン・ナイトに出てきそうな美しい星模様だ。その隣りは不可思議な四角が並び(チェレンなら、文様の名前もわかるかしらとベルは思った)、更に隣りは薄い青で繊細な花模様が散っている。そして右端は、これまた美しい、翡翠のような緑の、ベルが見たことのない模様だった。
 七つ目の、目の覚めるような美しい緑を手に取り、ベルは背後でコーヒーを入れているトウコを振り返った。その手元にも、繊細な幾何学模様の踊るカップが二種類、控えめな美を振りまいていた。

「ねえ、トウコ」
「なあに? あ、それがよかった? カップ替えようか?」
「ううん、そうじゃなくて。確かにこれ綺麗だけど」

 東洋のいきものと思しきその柄をちらりとながめ、ベルは顔をあげた。トウコは首をかしげ、傾けていたポットをテーブルに戻したところだった。

「なんでこんなにいっぱいあるの? トウコとNさん二人暮らしでしょお? トウコ、カップなんて集めてたっけ」
「ああ……そゆこと」

 2人暮らしなら、こんなにたくさんのカップは必要ない。友人のことを考えても、5つもあれば事足りるだろう。トウコやNに、友人を招いてパーティを開くような趣味はないし(そもそも、ふたりともあまり家にいない)、珈琲や紅茶にこだわっているとも聞かない。
 不思議そうにペリドットの瞳を瞬かせるベルに、トウコは苦笑した。それね、と口を開く。

「Nが買ってくるのよ」
「Nさん、そんな趣味あったんだ~! 意外!」
「趣味って言うとちょっと違うんだけど……」

 トウコはキッチンへと向かい、そこに伏せてあった大きめのカップを手にとって戻ってきた。ことりとテーブルにそれを置く。わあ、とベルは息を飲んだ。なめらかな白地に素晴らしい青で、翼の大きな生き物が描かれている。その背後はアラビア模様のような蔦が敷き詰められていた。
 縁はほんのすこし欠け、ところどころについたかすかな傷が年代を思わせたが、すてき!とベルは歓声を上げた。

「これ、レシラムとゼクロム、かなあ」
「分かんないけど。Nは蚤の市で『古代の伝説の竜を模したらしい』って聞いてきたよ」
「Nさんが買ったの、これ!」
「そう。結構したらしいんだけど……言わないんだよ、Nったら」

 いかにもありそうなことではあった。
 すべてのポケモンに等しく愛を注ぐNだけれども、自分と、そしてトウコが目覚めさせた白と黒の対のドラゴンだけはどうしても特別らしく、彼はレシラムとゼクロムをことのほか好いている。伝説のドラゴンを模した、と言われてつい手にしてしまったのだろう。

「それで、ハマっちゃった? ってこと?」
「う、うーん……」

 トウコはミルクを注ぎながら、言葉を濁した。手元のコーヒーはみるみるうちにキャラメルの色になり、ふんわり湯気をあげる。ベルは緑のカップを戻し、トウコの真向かいに座った。

「ちがうの?」
「まあ、なんていうか……」

 椅子を引きながら、トウコは苦笑、と表現する他ない顔になった。二人の間に並べてあったカップケーキ(ベルが持ち込んだものだ)に手が伸びる。

「それ、すごくきれいでしょう」
「うん! すっごいすてき! あたしこういうの好きだなぁ」
「だからその」
「ただいま」

 少し早口の、その割に通る声が響いて、ベルは「あ」と声を上げた。顔を上げたトウコにつられて振り返ると、萌黄色の髪をした青年が、リビングの入り口で薄い笑みを浮かべて立っていた。昔より格段に柔らかなその表情に、ベルは目をみはる。チェレンならツッコミのひとつもするのだろうなあ、そう思いながら、ベルもふんわりした笑顔になった。

「おかえり」
「おかえりなさーい。おじゃましてまーす」

 キミが来ることはトウコから聞いていたよ、そう答えてNはすたすたとダイニングテーブルに歩み寄った。

「Nも飲む?」
「あのねこれ、おいしいって評判のお店のカップケーキなんだよお! Nさんもどうぞー」
「それじゃあいただくよ」

 椅子を引き、当然のようにトウコの隣に腰を下ろしたNに、ベルは苦笑する。当たり前のことではあるものの、Nの中でトウコは特別近いのだと、彼は態度で常々、周囲に表明している。しかしトウコもまたひどく当たり前のようにしているので、気づいていないのだろう。なんだかおかしくなって、ベルはふふふ、と声をこぼした。

「N、カップどれにする? 今ベルが見てるやつでいい?」
「そうだね……ああそうだ、はいトウコ」
「…………また買ってきたの?!」

 ごとり、Nの左手が食卓に音を鳴らす。新聞紙で無造作にくるまれたそれに、トウコは呆れた声を上げた。Nは表情を変えもせず、しれっと「そうだよ」と答えた。

「もう、いくつめだと思ってるの? 2人しかいないのに、こんなに買ってきてどうするのよ……」
「誰かにあげるなりなんなりトウコの好きにすればいい」
「そう言われても……」
「Nさんいないなぁと思ったら、蚤の市見てきたの?」
「日曜日開催だからね」
「あたしのママも蚤の市大好きなんだよぉ! 特に柳でできた籠! すっごいいっぱい集めてるの」
「買い物をする人が時々持っている籠だね」
「そうそう。きのみとかお芋入れておくのにいいんだよお! ちっちゃいポケモンがベッドにしてたりもするけどねぇ」
「なるほど今度探してみよう。……トウコ、見てないで開けてよ」

 新聞紙の塊を凝視していたトウコははっとわれに返り、渋々新聞紙の端に手を掛けた。器用にくるくると巻いてあるそれをゆっくりと剥がす。果たしてその下から現れたのは、空のような青が目を射る、華奢で美しいカップだった。

「わあ、きれい!」
「トウコの目に似ているなと思って」

 なんてことなくそう言って、Nはかすかに微笑んだ。トウコは手の内に現れた陶器を、じっと眺めている。
 珍しく、今までのカップとはちがう、なんの柄もない青のカップだ。ただ、その青はすべてを含むような複雑な色をしている。空のような、湖のような、海のような、青い宝石のような……どれとも例えづらいそれは確かに、トウコの目の色によく似ていた。トウコの青い瞳は、トウコの感情に合わせてくるくるとその色を変えるのだ。完全燃焼の炎、透き通った空、優しく包むような、海。

「気に入ったかい」
「…………うん」
「ならよかったよ」

 ベルの視界には、呆然とするようにカップを見つめ、ほう、と息をつくトウコと、それを静かに見守るNの姿がある。ベルはため息をつき、それからトウコに目をやって――にんまりと笑った。トウコはベルの視線に気づき、眉間に軽くシワを寄せた。
 

「何?」
「なるほどーって思った」
「……何が?」
「そりゃあ、買って来ちゃうよお」

 怪訝な顔をしたトウコに、ベルは笑みを向ける。

「どういうこと?」
「ホントはわかってるくせにぃ」

 みるみるうちに、トウコの頬に色がつく。その頬をうりうりとつつきながら、ベルは目を眇めた。

「そーんなに嬉しそうな顔したら、買ってきちゃうよ。ねえ? Nさん」

 Nは何も言わず、トウコを見ている。その目はいつもより一層優しげなように、ベルには思えた。