不戦敗

★attention.
アクロマさんとマコモさんがもしかして学生時代の後輩と先輩だったりすればいいのに!
という捏造満載の妄想から生まれたお話です。

「なるほど、ね」

 聞き慣れてはいるが聞こえるはずのない声に、アクロマは驚きをもって顔を上げた。少女のような、という例えがぴたりとくる、可憐な声である。しかし、その可憐さに震えるような心理をアクロマは持ち合わせていなかった。
 恐る恐る振り返れば、声の主として記憶している女性が、扉に背を預けて立っている。つややかな長い黒髪に、子どもじみた花形のピン。ありすぎるほど見覚えのあるその姿。やはり空耳ではなかったのだ。

「……驚きました。貴女が何故ここに?」
「君のオーベムがアタシを呼んだの」

 今一度の驚きと共によくよく目を凝らせば、扉にもたれた彼女の後ろに、ひょこりとオーベムの姿が見える。二、三、目を瞬かせ、アクロマは仕方なく眉根を垂れた。ため息とともに顎を撫でれば、なるほど、久しぶりに髭が伸びている。

 ここはプラズマフリゲート、アクロマの研究室である。思い立った時にいつでも研究室ごと動ける利便性が気に入って、アクロマは再生プラズマ団を解散した後も、行き場を思い悩んで残っている数人の元団員たちとここに居を構えていた。
 特定のルートもない、所在が定まらぬ船暮らしである。故に、キョウヘイやメイといった馴染みのトレーナー以外の人が訪れることは、珍しいを通り越して奇異だった。ましてや同業者――昔なじみの人間であっても――が現れたのは、プラズマフリゲートが進水して以来、初めてのことだ。
 アクロマは苦笑し、メガネを拭うと全身を『彼女』に向き直った。

「……今はヒウンに停泊していたのでしたね。忘れていました」
「君、何日ここにいるの?」
「そうですね……、今日は何日でしょうか」
「言うと思った。今日は五日よ」
「でしたら、一週間になります」
「そう」

 彼女は組んでいた腕を解き、コツコツと足音を鳴らしてアクロマに近づいた。ヒールの低い靴ではあるが、やはり紳士物とは違う音だ、ぼんやりとそんなことを考えていると唐突に、伸びた髪を一房引かれた。
 ぐ、と呻くような声が漏れたものの、それ以上のおかしな声を挙げずにすんだのは、これが初めてではないからである。

「ねえ、何日寝てない?」
「……昨晩は1時間ほど寝ましたが」
「それは仮眠っていうの。最後に6時間以上……君の場合は4時間だったかしらね、そう、4時間以上寝たのは、いつ?」

 アクロマは視線を逸らし、口をつぐんだ。ぐい、白い手がまた髪を引いたが、今度は予期していたので抵抗する。

「ねえ、アクロマくん。ポケモンに心配されるほどって、よっぽどだと思うのだけど? 違う?」

 どうやら彼女は怒っているようだ、そう気づいた時には最早手遅れだった。
 少女のような面差しで微笑むひとの笑顔に、底が見えない。――昔からそうだった。
 アクロマは瞳を閉じて観念した。いつも微笑んでいる彼女は、腹を立てているときにさえ、深い笑みを浮かべるのだ。

「……2週間前です」
「寝なさい」
「大詰めなんです」
「ミスが出るわよ。寝なさい」
「後少しなんですよ」
「寝て起きてからだって時間はあるんでしょ?」

 にっこりと、いっそ美しいほどの微笑みで、彼女はもう一度、髪を引っ張った。

「いいから、寝なさい。先輩命令」

 ああ、学生時代、遠い昔に研究室で、同じやりとりをした記憶がある。確かその時も、結果は……

「……わかりました……」

 敗北だった。
 のろのろと、仮眠室へ引き下がっていくアクロマの背に、少女めいた声が歌うように囁く。

「もし眠れないのなら子守唄でも歌ってあげるけど?」
「遠慮させて頂きます」
「じゃあ添い寝とか?」
「結構です」
「相変わらずつれないわねー」

 勝ち誇ったような、楽しげな微笑みが憎たらしい。
 それでも、ようやくにたどり着いた寝台は、極上の誘惑を放ってアクロマを待っていた。倒れこむようにして横たわる。彼はそこでやっと、自分がひどくくたびれていることに気がついた。

「おやすみ、アクロマくん」
「……おやすみなさい、マコモ女史」

 急激に落ちていく意識が最後に捉えたのは、閉まりかかった扉の向こうでハイタッチする、マコモとオーベムの姿だった。