花散らし

 トウコが子供をやめたのは、春の花咲く肌寒い日の、明け方間近のことだった。
 それは想像より遥かに苦痛で、けれどもずっと、優しくて熱かった。そうして今、白けた薄明かりが世界を染めていくのを、トウコはじっと、青い瞳で見つめている。ぱらぱらと、ひさしをたたく雨音が、貝殻のよう な小さな耳に届いた。

「雨、みたい」
「……そうだね」

 ひとりごとに答えが返り、トウコは驚きに瞳を動かした。上を見あげれば、銀色の瞳が月の光のように、静かに見下ろしている。――ほんの少し前まで、太陽のようにぎらぎらしていたくせに。なんだかおかしくなって、トウコは小さく笑った。月の瞳は細められ、その口角はゆるやかに弧を描く。

「起きてたの」
「起きていたよ」
「雨音、気づかなかったな」
「体は平気かい?」
「……うん」
「……でも、眠れない?」
「眠いけど、眠れない」
「……困ったね」
「……うん」

 冷たそうに見えた腕は存外に温かく、意外と硬くて、それなのになめらかだ。
 ずっと隣にいたのに、知らなかったなあ。トウコは呟いて、そこに頬をすり寄せた。薄い皮膚越しにどくどくと血流を感じる。大きな掌がゆるやかに背を包み、トウコは満足に瞳を閉じた。

「寒い?」
「ううん」
「そう」

 ならよかった、低い小声は柔らかく、トウコの耳にひたひたと沁みる。あたし、この声、好きだなあ。そんなことを思ったトウコの額に、やわらかなものが触れた。

「……N?」
「……ああ、ごめん」
「いいけど……」

 目を開いて、トウコはもう一度上を見上げた。星の瞳が交錯し、トウコはひらめいて身をよじる。不思議そうに首を傾けたNのそこに腕を回して、二人の距離をうんと縮めた。

「あたし、こっちがいいな」

 そういうなり、トウコは薄い唇に自分のそれを重ねた。
 薄いけれど柔らかなそれに瞳を閉じると、首の後を支えるように、大きな掌がまわる。安心して、トウコは彼の腕に身を委ねた。触れる唇はしっとりとやさしく、そして熱い。その温度が全身を這った昨夜のことを思い出し、トウコはその白い肌をほのかな紅に染める。

 永久にも思える時が流れ、息苦しさに視界が白くなり始めたころ、熱はゆっくりと、トウコから遠のいた。解放されたトウコは急激に流れこむ空気を懸命に吸いながら、それでも物寂しさに上を向く。苦しくても、くっついている方が幸せだったのだ。
 言葉にしないトウコの声を聴いたのか、Nは銀色の瞳を糸のように細めて、耳元で囁く。

「今は、これだけ」
「……うん」
「また、ね」
「うん」

 かわりに、と全身すっぽり抱きすくめられ、甘くて酸い匂いにトウコはじんわりと浸った。自分のものでも馴染み深い友人のものでもないそれに、ひどく安らぐのだ。
 あたしだけのもの。
 奇妙な独占欲が薄い胸にこみ上げて、トウコはくつくつと笑った。

「トウコ?」
「ううん……眠れそうな気がして」
「そう」
「……もうちょっと、そうしてて?」
「分かったよ」

 トウコの他愛もないわがままにNは瞳を閉じる。細いトウコの腰を手繰り寄せて、ぎゅうと抱きしめなおした。栗色と萌黄色が交じり合い、朝ぼらけの白い闇に照らされるシーツに、ゆっくりと沈んでいく。

「さあ、おやすみ、トウコ」
「……おやすみ、N」

 Nの吐息が子守唄のように響き、トウコはしずかに、眠りに落ちた。