手と手

(「足音」のつづき)

「N!!」

 町外れの樹の下で、ぼんやりとコーヒーを啜っていたNは、首を傾げて振り返った。Nの手元で遊んでいた野生のヨーテリーが、草むらへと逃げていく。
 時刻はちょうど、4時になるところだった。太陽はすっかりやる気をなくしていて、辺りはぼんやり薄暗くなり始めている。冷たい風が、Nの足元を漂っていた煉瓦色の枯葉をさらった。

「ああ、よかった、見つけた……!」
「どうしたのトウコ」

 石畳の向こうから現れたのは、トウコだった。栗色の美しい髪を結わずに風に遊ばせて、息急き切って駆けてくる。
 トウコは、のんきな声を上げたNを、寒さに潤んだ瞳で非難するように睨みつけた。速度を落とさず、その胸元に飛び込む。Nは驚きながら左手にコーヒーを庇い、右手でトウコを受け止めた。

「弾丸みたいだね」
「フキヨセジムに比べればずいぶん穏やかだと思うけど!」

 声を上げ、白い息を吐くトウコの鼻の頭は真っ赤だ。Nは思わずそれをつまんで、「ひゃあ冷たい!!」と文句を言われた。

「ああもうこんなに冷えて! いつからいるのここに!」
「ついさっきだよ。どうしたんだいトウコ。ベル、が来ていたんじゃなかったの」

 思い出し思い出しそう口にすれば、トウコは頬をふくらませて、青い瞳を瞬かせる。走ってきたせいかひどくあたたかいトウコの体温に、Nは我知らず微笑んだ。

「そうそれがね聞いてよ、ベルったら一日間違えてて! あの子明日遊びに来る予定だったの! ……今晩部屋を片付けるつもりだったのに!」
「ああ……確かに散らかしたままだったね」
「……あたし片付け苦手なのよ」
「どうやらそうらしいね」

 拗ねたように呟いて下を向いたトウコを尻目に、Nは左手のコーヒーを啜った。ずいぶんとぬるくなってはいるものの、まだ温かい。部屋を出てきてから、未だそれほど時間は経っていないのだな、とNはぼんやり考えた。きっとトウコは、部屋に戻ってとんぼがえしに、Nを探しに出たのだろう。
 Nの口角が、また無自覚に上がる。トウコはそれには気づかずに、膨れたまま下を向いてぐちぐちと文句を続けた。

「なーんの準備もしてなかったんだよ?! コーヒーだって切らしてて、お菓子もなんもなかったし……だから買出しに行ったのに」
「なるほどね」
「まったくもう、ベルったら! ……ごめんね、Nだって驚いたよね」
「そうだね」
「ベルにも喚かれちゃったし……はぁ。Nがいるよって先に言っとけばよかったかなあ」

 トウコの眉が下がり、Nはかすかに目を見開いた。

「キミの事だからとっくに言ったかと思っていたんだけどね」
「……言っておきたいのは山々だったんだけど。ベルに話すと筒抜けだから」
「筒抜け?」
「……トウヤに」

 トウコの深いため息が、白い塊になって空に上る。Nはあまり馴染みのないその名前を、頭の中で反復した。
 トウコとよく似た名前、よく似た瞳の光、とんでもなく強いバトルトレーナーの。

「……キミのお兄さんだっけ?」
「弟よ! アイツほんとうるさいの……Nの事話したら、絶対、『オレは反対だー!!』……なんて飛んでくるに決まってるんだから! ホント鬱陶しいっていうか煩わしいっていうか」

 兄貴ぶって過保護なのよ過保護! 拳を握り眉を吊り上げて、トウコは言う。

「ったく、旅に出るときもああだこうだ煩かったし、あたしの友達が誰かってことまで把握しようとしてくるし、果てはあたしの手持ちの編成にまで口出ししてくるし……ママは大体『もうオトナなんだから、トウコの好きにしなさいー』なんていうのに誰に似たのよトウヤったら……」
「……なるほどね」
「え?」
「なんでもないよ」

 首を傾げるトウコに答えず、Nはその手をそっと握った。トウコはパッと笑顔になって、その冷たい手を握り返す。
 寒さも、胸をちくりと刺激した原因不明の痛みも、その瞬間に飛び去った、そう思ったNは、その温かく小さな手を握る指に力をこめた。

「それよりベルはいいのかい」
「あ! 留守番してもらってるの。Nも帰ろう、ちゃんとベルに説明しなきゃ」
「……それから部屋の掃除だね」
「うっ」

 苦虫を噛み潰したような顔をしたトウコに喉の奥で笑って、Nはトウコの手を引いて歩き出す。慌てたように速度を上げてNの隣に並んだトウコは、Nの指に自分の指を絡めて、赤い頬で呟いた。

「ねえ」
「なんだい」
「……今度から、なにも言わないで、いなくなるの、やめてね」

 Nは目を見開き、そうして今度こそ、意識して微笑んだ。

「善処するよ」