藍に輝く湖面の真上、夜空の端に、巨大な満月が引っかかっていた。
空にぶら下げられた月は磨かれた銀の盆にも似て、眩く湖上を照らしている。それはまるで、人の世界で夜を照らし始めた街灯のように……世界の何もかもを暴こうと、天が苦心しているかのようだった。
その白い光の中を、つい、と黒い人影が横切る。月光を弾く山羊の角、ばさり羽ばたく蝙蝠の翼。――その姿を見た者がいれば、甲高い悲鳴を上げたかもしれない。けれど、幸いにしてか不幸にしてか、あたりにあるのは夜の生き物の気配、ただそれだけだった。
人影は月の真ん中で、くるり、駒鳥のように旋回する。人ならざるものの動きで。そうして影は、上向いた形のよい鼻を、ひくりと動かした。紅をはかずとも朱い口唇を、濡れた舌でぺろりと舐める。
「極上の……みーつけた……!」
うふふふ。
まるで無邪気な赤子のように笑い、影は夜を滑る。月光が舞い、サファイアのような煌きが2つ、闇を裂いた。そうして影は、闇夜に滑りこみ、まるで解けるように消える。
――月光の中には、噎せ返るような薔薇の芳香だけが、濃く残っていた。
*
ごう、と一閃強く吹いた青い夜風が、青年の長い髪をさらった。月光があたり、ちかちかと瞬く。けれど青年はまるで頓着せず、風などなかったかのように、首を上に向け続けていた。その姿はまるで、空以外に興味がないと言わんばかり。風に乱れたその髪を、撫で付けようともしないのだ。
彼のもたれる石のテラスはもうずいぶんと長いこと、風雨にさらされてきたのだろう。至る所が削れて崩れ、さらには苔むし、その城が酷く古いものであることを証していた。だが、青年はそれにも全く興味を示さない。ただ、欄干に手を掛けて、濃紺の空を見上げている。
城にも、風にも、己の影にさえ。一欠片の気も向けない。
……彼の名は、N、といった。
豊かで長い、緑の髪。月の光をただ跳ね返すだけの、青銀の瞳。ひどく整ってはいるけれど、およそ生命力を感じさせない、淡白な面差し。青白い肌を白い法衣に包んだ、夜にただ、空をみあげている、背の高い青年。
にゃあ、彼の手元で黒い猫が鳴く。するとNは、生まれて初めて空以外の存在に思い至ったかのように、きょとんとそちらに目を向け、それからうっすらと口角をあげてみせた。黒猫の瞳が、金に瞬く。
「月が気になるの」
Nの問いに、猫はにゃあ、と再び鳴いた。そうだね、と青年はまるで猫に応えたかのように呟く。そうしてまた、空を見上げた。
「裏を青い箒星が通る100年に一度の月だものね」
雲ひとつない、どこまでもすんだ闇の空のどまんなか、銀色の巨大な月の端にはたしかに、青玉を転がしたような箒星がびかびかと輝いている。
100年に一度、月の裏を箒星が通る日、それが今夜だ。書物で得たその知識を、青年は幼い頃からずっと、数少ない楽しみとして心の片隅に潜ませてきた。口にすれば大人たちに、そんなことに心を煩わされてはならないと、言われるのが目に見えていたので。
ごう、また風が啼いた。
程よりも一段と強い風に、緑の髪が青年の目元を掠め、さすがの青年も目を細める。
そのとき。
湿った夜の匂いの中に、唐突に、甘ったるい香りが混ざりこんだ。Nの日常には存在しないその香りに、彼は細めていた目を見開く。ねっとりと甘い香り。それはどろりとNの鼻腔に忍びこみ、脳髄をぐらぐらと揺らして、痺れさせる。深く吸い込んでしまい、ごぼりと噎せた。猫がにゃあにゃあと空を掻く。
Nは顔をしかめ、かぶりを振った。香りを吐き出すように、細く息をつく。知らない香りではないように思えたが、それは、あまりに遠い記憶で、鮮明なものとはならなかった。
ただただNの身体をおかすそれは、濃厚すぎる花の――薔薇の、香り。
なぜ薔薇が、Nは口元を手で覆いながら思考を巡らせる。古城の周囲の森に野ばらは生えているし、裏の廃園にも朽ちかけた薔薇園はある。だが、そのどれもが、これほどまでに強くは香らないし、地上の薔薇の香りが古城の上まで届くわけがない。そもそも、突然香り出すはずなどないのだ。いくら風が強くとも、これは、おかしい。
ごう。
そう考えた瞬間に吹きつけた、三度目の風はひときわ凄まじく、Nはさすがに、空を睨んだ。風の先を見上げれば、ギラギラと青い箒星。そしてその青い尾には、二つのサファイアがまたたいていた。
「……あの星はさっきまであそこになかったよね。新星にも見えない」
とばされそうな風の中、手すりに爪を立てて突風に抗いながら、Nの言葉に猫が鳴く。
頷いて、あるはずのない星の存在に、Nは目を凝らした。ちかちかぴかぴか瞬く青星。どんな本でも見たことはないし、どんな学者からも聞いたことのない双子星。そんな星があるものだろうか。箒星が連れてきた? まさか、そんな馬鹿なことが起こるものか。
そう考え、Nは小さく息を飲んだ。双つ星の輝きが強く、大きくなっているのだ。……まさか、星が、近づいてきている!?
ごごう、今までで一番、冷たく甘い突風が、Nに向かって吹きつけた。猫が潰れたような鳴き声を上げ、飛び上がる。刺すように吹く風に、ついにNは瞳を閉じた。
にゃあん。
ほんのりと湿っぽく、ひんやりと柔らかな冷気が、Nの手足にまとわりつく。瞳を開けたNは今度こそ、心の底から驚いた。
二つの星は、青いまたたき。
燐光を放つ陶器の肌。
禍々しい角と翼、そして、この世のものではない、蔓のような尻尾。
咽るほどの、薔薇の香りの主。
人ならざる、けれど星の瞳を持つ娘が、Nの前の虚空にふわりと浮かんでいた。
「今晩は、おにいさん」
少女はぺろり、舌で濡らした唇を美しく歪めて、珠の鳴るような声で囁いた。
「ね、あんた、すっごく美味しそう」
真っ赤な爪でNの頬をなぞり、少女は艶やかに微笑む。
柄にもなく、Nは見蕩れた。彼女のような存在をなんというのか、Nは正しく知っていたのに。
「あんたの魂、アタシに、頂戴?」
そうか自分は悪魔に魅入られたのか。
そう理解しながら、Nはゆっくり、瞳を閉じた。