鳥籠の王

 ――とにもかくにも、逃れなければ、と思ったのだ。
 彼はトウコにとって祖国の仇で、間接的とはいえ、父親を死に追いやった人物でもある。とはいえ、この婚姻は和平のために仕方のないことだからと諦めていたし、己の義務だと弁えていた。でも……だからこそ。心までは売り渡してはならないと、嫁ぐあの日、自分に誓った。

 そのはず、だった。

 トウコは白い溜息を吐く。
 嫁ぎ、夫となった彼の境遇を知って、まったく同情しなかったわけではない。権力もなく宮殿で飼い殺しのように日々を送り、さらには異能故に人に拒まれ、それ故に人嫌いとなったと聞いて、心は痛んだし、哀れにも思った。彼自身にはなんの罪もないことを、トウコはちゃんと理解していた。
 でも。それとこれとは別だと考えたのだ。彼にはなんの力もないが、それでも彼は王であり、戦の一因ではあった。長く思い込んできた、隣国の王は憎むべき仇であるという思いは、そう簡単には消えるものではない。だから触れようとは思わなかったし、彼も触れてはこなかった。

 ……今朝までは。

 トウコは頭を振った。考えてはならない。考えたくない……。

 ざくり、爪先が草を踏み、はっと我に返る。顔をあげれば、眼前に広がるのは鬱蒼と茂る森だった。日暮れ前の弱々しい陽射しのほとんどは、濃い緑に阻まれて地面に届かず、湿気た森の空気は冷えて、上気した頬を撫でる。

 ……どこ、ここ。

 トウコは足を止め、周囲を見渡した。
 見覚えのない場所だった。何しろ城壁の内側とはいえ庭園はひたすらに広く、池の向こうは深い森なのだ。

『狩りができるんだ。ボクは嫌いだからやらないけど』

 かつて言われた言葉を思い出し、トウコはひとり、立ちすくむ。

『色々な子がいるよ。鹿にウサギ、キジ、狐……狼なんかもね』

 人間にとって安全とは言い難い、だから暗くなったら近付いてはいけないよ――仇とはいえここでは主であるあの男は確かにそう言った。分かりましたと答えたことを覚えている。
 トウコは唇を噛み締める。日は容赦なく傾きつづけ、ただでさえ分からない森の道を、余計に覆い隠した。
 トウコは草を踏む爪先を見つめる。美しい絹の上履きは泥にまみれ、揃いのドレスは露に濡れ。無我夢中で駆けたせいか、レースがほつれ、鉤裂きができている。どこの枝に絡んだか、髪は乱れてほつれかかっていた。およそ貴婦人らしからぬ姿だ。おまけに脚はくたびれ果てて、再び歩もうとする意志をくじくのだ。
 トウコは溜息をこぼして、ずるりと木にもたれかかった。子供の頃は森なんてどうということもなかったのに、たったこれだけでもう歩けない。ハルモニアに嫁いでこちら、王の妻として仰々しくあつかわれ、さらに、王を……Nを厭って閉じこもり続けていたのが、あだとなったのだ。

 トウコは昇ってきた月を見上げた。
 太陽に比べて心許ない月の光は、トウコにNを思い起こさせるのだ。――いつも何処か遠くを見つめて、獣たちにばかり優しく……自分を省みなかった王のことを。トウコは再び溜息をついた。こんなことになったのは彼のせいだ。
 ……だって、どうして。 

 互いに触れないと約束したのだ。理解し合えるとは到底思えなかったし、そう簡単に、憎しみは消せなかったから。彼もそれを了承し、ずっと守ってきた。それなのに。夕暮れの回廊で遭遇した彼はどこか悲しげで……そして、どうかしたのかと問うたトウコを突然抱きしめたのだ。

 その抱擁に雷撃を受けたようになって、トウコは彼の頬を張り、回廊を飛び出して……がむしゃらに走り、今ここにいる。どうしてだろう、トウコはひとり考えてみる。王だって人恋しい時くらいあるだろう。彼がどう否定しようと彼自身が人間なのだから、それはもう、仕方がない。

「そうよ仕方ないじゃない」

 呟いた言葉は淋しく地に落ちて、トウコの足元を汚した。仕方がないと考えてみても、受けた衝撃は消えないのだ。

(……そう、多分、本当は分かってる)
(ただ、認められないだけだ)

 トウコは両腕で己を抱いて、小さく震えた。
 どうして衝撃だったのか。考えずとも、すぐに分かることだった。自分は多分、彼を信頼、し始めてしまっていたのだ。約束を守って触れては来なかった彼を、好ましく思い始めていたのだ。……それが裏切られたように感じて、悲しかったのだ。
 ――トウコは細い息をつき、空を見上げた。

「でも多分、それだけじゃなくて」

 冷えはじめた空気に、白い息が昇る。

「……たぶん、ほんの、少し、だけ」

 嬉しいと、思ってしまったんだわ。トウコは独り言ち、顔を歪めた。そんなこと、感じちゃいけないのに。あの人はお父様と国の仇なのに。袖を掴んだ指先に、力が篭る。

 守られる約束はありがたかったが、それは同時に、触れるに値しないと思われているようにも感じられたのだ。トウコはそう、自分に言い聞かせた。女として魅力がないと、暗に告げられているようだった、と。歳の離れた夫婦である。Nにすればきっとトウコはまだ幼い妻だったのだ、と。
 それは悔しくて、だから……ほんの少し触れられて、嬉しかったのだ。トウコは繰り返し呟く。

「そう、だって」

 あのひとは、敵で。

「ハルモニアのせいでトウヤだって苦労して」

 だから、トウコは。

「……絶対に、気を赦しちゃ、ダメなんだから」

 彼を信じることは、裏切りなのだから……。

 トウコはしゃがみ込み、ドレスの裾を握りしめた。夕暮れの藍のドレスは祖国で、今は王となった弟や、古い馴染みのチェレン達が、一番似合うと褒めてくれたものだった。そして彼も――空のようだと、言葉少なく讃えてくれた、ドレスだったのだ。……だけれどもう、着られない。
 ただの第一王女だった頃は直して着ればよかったドレスも、ここではそうもいかない。痛んだドレスは払い下げられ、下の者の暮らしを潤すのだ。
 ほろり、トウコの目を涙が伝った。祖国がどんどん遠くなってゆくようで苦しかった。持ち込んだドレスはいずれ、全て着られなくなるだろう。そうしてトウコも、ハルモニア風のドレスを纏うようになるのだ。
 ……心もそうなってしまうのだろうか。段々に憎しみもなじんで薄れて、彼を愛してしまう日が来るのだろうか。逆に、彼が自分を愛する日が来るなんてことが、あるのだろうか?
 そこまで考え、トウコは身震いした。
 一瞬、それが甘美な瞬間のように思えてしまったのだ。あの愛想のない夫と手を取り合って、共に並ぶ姿を、悪くないと思ってしまったのだ。

 ――そんなこと、冗談でも考えたらいけない!

  トウコは慌てて頭を振って、そのおぞましい考えを追い出そうとつとめた。

「……そうよ。今はドレスのことなんかより、帰り道の事を考えなきゃ」

 トウコは声にだしてそう言ってみた。庭師でなければ把握していないと言われる森を、なんとかして、宮殿の方へ戻らなければならない。

「このままいたら、寒くて死んじゃうわ。ベルもきっと心配しているし……」

 こうしてはいられない、そう呟いて立ち上がった瞬間、ホー、低く鳴く鳥の声が聞こえた。ぞくり、トウコは身をすくませる。
 完全に落ちた太陽、月明かりに僅かに輝く森は急に、魔界のように黒々として、トウコを飲み込みに掛かっていた。どこかで虫が泣き、なにかの遠吠えが聞こえる。
 ガサガサリ。何かが草を踏み分ける乾いた音が至近で聞こえ、トウコは凍りつく。

 ……まさか。その考えに行き着いた時、トウコはあわや悲鳴を上げかけた。

「お、おおか」

 最後まで言えず、トウコは木にしがみつく。『……狼なんかも』森を指して言ったNの言葉が、トウコの脳裏を駆け巡る。

 一際大きく草むらが揺れ、それが姿を現した時、トウコはほとんど失神しかけた。犬に似た、けれども銀色に輝く威容。凛々しくピンと立った耳に、悠然と揺れる尾。まばゆい巨躯をもつ狼が、果たしてそこにいたのだった。狼は低く唸り、煌々と光る金の目で、トウコをじいと睨んでいた。
 トウコは震える指で、ドレスの内側に隠し持っていた懐剣を構えた。狼に喉元を切り裂かれ、貪り喰われる己の姿を想像し、トウコは蒼白になった。「王妃の遺骸が森で狼に喰われていた」などとなれば、新たな戦を招きかねない。心を殺してまで嫁いできた今までの全てが無駄になるのだ。

 歴戦の猟師でさえ決して油断しないという狼を、疲れた身体と細い剣一本で倒せるとは到底思えない。血を流せば他の狼を呼ぶことになりかねないのだ。どうすればいいの。鈍った頭で必死に考えたが何も浮かばず、トウコは途方に暮れる。

 その瞬間、狼の巨体が、トウコに飛び掛かった。

 自分の喉からほとばしった悲鳴に、トウコは固く目をつむる。喉元に当たる牙、生臭い獣の息に縮こまった。

「ひ……」

  柔らかな肌に象牙質が食い込み、ぷつり、皮膚の切れる音が小さく響いた。トウコは死体となった己を思い浮かべる。彼は悲しむだろうか。それとも獣を哀れむだろうか…… 
 トウコは諦め、四肢の力を抜いて、その瞬間が来るのを待った。けれど。

「……うひゃあ!」

 ぺろり、喉元を舐められて、トウコは慌てて目を開けた。ぺろり。

「な、なに……?」

 歯が噛み切った皮膚を、狼が舐めている。ぺろり。すんすん、狼はトウコのドレスに鼻を寄せた。
 トウコは呆然として、狼の巨大な姿を眺めた。銀色の身体はいかにも美しく、月光の下薄青に輝いている。金色の瞳は琥珀のように、闇の中でまたたいた。凛々しい野生はそれなのに、狼はそっと、トウコのドレスの裾を噛んだ。トウコはおずおずと、その背に手を伸ばす。

 その背に触れても、狼は暴れなかった。そして、トウコの手首に巻かれたリボンに、ぐいぐいと鼻先をこすりつける。……リボンの持ち主のことを知っているのかしら? トウコは首を傾げ、通じぬことを知りながら、狼に語りかける。

「ねえあなた……陛下の……Nのこと、知ってるの?」

 当然ながら、狼が答えることはなかった。トウコは自分に苦笑して、狼の首に手を回す。

「……そうよね、分かる分けないわよね」

 獣達と語らえるのは、陛下――Nだけだ。彼はそれゆえに獣王などと謗られ、冷遇されているのだから。

「庭の動物達は皆トモダチだって、Nは言ってたけど」

 あなたも? トウコの問いに、狼はトウコを見上げた。もしかしたら、私の言うことが分かるのかしら。

「ねえあなた、Nを知っているのね? ……あたしの、夫を」

 トウコがそう囁いたそのとき、狼が、高く 吠えた。
 それは月まで届くかと思われる、高い高い咆哮だった。
 おーん、狼の咆哮にトウコは震え、驚きに目を見張って狼をみた。応えるように森のあちらこちらから、細い遠吠えがあがる。あおーん。おーん、あおーん。おーん。それは文字通り狼煙のように、次々と伝播して森を満たし、夜を支配した。

 何が起きたのか解らずに、トウコは呆然と狼を眺めた。狼は今一度大きく月に吠え、また伝播する遠吠えの狼煙を聞く。こんなにも狼がいたのかと驚くと同時に、トウコは不安になった。もしも狼が群れを成して現れたなら、今度こそ太刀打ちできないだろう。懐剣一本では余りに心許ない。
 ガサガサと、なにかの近づく音が再び聞こえた。狼はじっと、そちらを睨んでいる。きっと、一撃を与えることさえも出来ずに、自分は死体となるのだろう。トウコは今度こそ観念し、草むらにぺたりと座り込んだ。シルクの靴下に露が滲み、ひたひたと冷たさが押し寄せる。トウコはそれを、死の足音として聞いていた。

 ――しかし、現れたのは、鋭い爪を持つ毛むくじゃらの脚ではなかった。カッ!と石を蹴り、木々の合間から姿を見せたのは、黒い蹄をもち、毛並みもたてがみも黒々とした、闇そのものの似姿のような馬だったのだ。そしてその上には……トウコの知る人の影があった。

 鞍も付けずに馬にまたがるそのひとは、鞭も持たず、ただ手綱だけを持って、馬上に鎮座していた。いつも通りの服装が少し乱れている。淡い緑の髪は結いもせずに背を流れ、光りを浴びて、燐光を放つよう。そうして、ひどく険しい顔をして、座り込んだトウコを見下ろしていた。
 その姿は月に映え、一枚の絵のようだった。トウコは彼が美しい青年だったことを思い出す。玉座にいるより余程威厳があって王らしい、とぼんやり考え、はたと我に返った。どうして彼がここにいるのだろう?
 思いが顔に出ていたのか、馬上の人は小さく呟いた。

「キミを捜していたんだ」
「わたくしを? どうしてあなたが」

 王が自ら捜す必要などどこにもない。権力を持たぬといえども王は王、彼が目配せをするだけで動く家来は多くいるのだ。王自らが森へ捜しに出るなど狂気の沙汰。
 自身のことは棚に上げ、トウコが非難めいた声を上げると、王――Nは、そうだねと言った。

「だったらどうして」
「どうしてだろうね」

 Nは頼りなく呟き、黒馬の背からひらりと降り立った。

「ボクにも分からない」

 そうして、へたりこんだままのトウコに手を差し出す。

「無事でよかった」

 トウコは顔を歪める。差し出された手を払おうと手を振りかざし……胸元に握り込んだ。
 自分から手をとりたくはなかった。優しくされることが、そうしてNにほだされて行くことが怖かった。
 懐剣を握りしめたまま、手を出さないトウコにNは溜息をついて立ち上がる。そしておもむろに狼を振り返り、ありがとうと微笑んだ。トウコは目を見張る。この人、こんな顔をするの。

「彼が教えてくれたから、キミの場所が分かったんだ」

 Nは狼に歩みより、子供のような笑顔でその背を撫でて抱きしめる。狼もNの頬を舐め、仔犬のように尾を振った。

「彼はボクの兄弟なんだ」
「……狼が?」
「そう。彼が仔狼でボクも子供だった頃、一緒に育った。……けれど彼が大きくなって、大人達に宮殿を追われたんだ」

 Nは悲しげに顔を歪め、狼はNの鼻を舐めた。

「そう……」

 トウコは呆然と呟く。人と狼が共に育つなど、トウコの中では有り得ないことだった。狼は森の王であり人の敵、人は平地の支配者で狼の敵。それが当たり前だったのだ。
 人と獣が相容れることなどありえないと思ってきたし、そういうものだと信じてきた。けれども目の前の王は、それを容易く覆そうとする。トウコは混乱のままにNを見上げた。

「キミからボクの匂いがしたから、キミを襲うのを止めたんだそうだ」

 Nはトウコを振り向かず、そう続けた。

「噛み付いてごめん、だって」

 信じられないモノを見る思いで、トウコはNを見つめた。

「身内だと知っていれば襲わなかった、って」
「本当に言葉が分かるの?」
「気味が悪いかい?」

 Nが振り向いた。瞳はどこか悪戯に揺れている。

「……ええ」

 トウコの言葉に、Nは笑ったようだった。

「トウコ姫、キミは本当に正直だ」

 Nはくつくつと笑った。

「ボクはキミのそういうところ、嫌いではないよ」

 なっ、絶句したトウコを無視し、Nは「キミもそう思うだろう?」と狼の背を撫でた。狼は同意したのか、小さく鳴く。

「表と裏で顔が違うニンゲンより、余程良い」
「わたくしを馬鹿だと仰るの」

 トウコは立ち上がろうとしてよろめいた。Nはふらつくトウコの腕を取り、耳元で囁く。

「正直で好ましいと言ったんだよ」

 睨むトウコに、続ける。

「宮廷では生き辛いだろうけれどね」

 歯噛みをするトウコを省みず、Nは黒馬に声を掛けた。

「乗せてあげて」

 Nの声に答え、馬が膝を折る。トウコは首を振った。

「鞍のない馬に乗ったことがありません」
「鞍なんてつけたら彼が可哀想だろう」
「落ち着いて座れませんわ」
「それじゃあボクが鞍になろうか」

 えっ、トウコが驚いた隙に、Nは軽々とトウコを抱え上げた。そのまま黒馬の背に跨る。
 気がつけばトウコはNの腕の中、馬上の人となっていた。歩けますから降ろしてくださいと喚くトウコの口に手を当て、Nは王の声で言った。

「暴れるな。キミが戻るまで休めない者が多くいることを忘れてはいけない」

 トウコはぴたりと押し黙る。悔しいほどに正論だった。

「キミの奔放さはボクには好ましいが、キミはもう……自由の身ではないことを、忘れてはいけない」

 Nの指示を待つことなく歩き出した馬を、ひたひたと銀の狼が追う。Nはそれをちらりと振り返り、微笑んだ。

「キミは、捕らえられた野生の鳥だ」

 黙ったままのトウコに、Nは囁く。

「そしてあそこは鳥かごだね」

 いつの間にか見え始めた、宮殿の端の塔を目で追い、Nは言うのだ。

「彼は大人たちに王宮を追われた。ボクはとても悲しかった。だけれど、彼のためにはよかったのかも知れないと思うこともある」

 トウコは顔を上げなかった。馬は静かに、悪路を行く。

「少なくとも、彼の野生を殺さずに済んだのだから」

 人の道に出ると、狼はぴたりと脚を止めた。Nは振り返り、ありがとうまた来るよ、と声を掛ける。頷くように一度吼え、それ以上、狼はついてこなかった。ここから先は彼にとって不自由な世界だと分かっているんだ、とNは囁く。

「キミが好ましいのは自由だからだ。でも、これからキミはきっと、その自由を次々に奪われて行くだろう」

 それは想像を絶する苦しさだよ。囁きに、トウコは空を見上げた。

「ボクはキミを閉じ込めておきたくはないが、皆はそれを許さないだろう」

 Nは笑う。月がその横顔を照らした。
 泣いているようだわ、とトウコは月を見上げて思う。

「ねえ、トウコ姫」
「……なんでしょうか」

 応えて振り向くと、月に似た人は無表情に、トウコを見下ろしていた。

「ごめん」

 彼はそれきり、何も言わなかった。主の心を汲んだのか、黒馬はゆるゆると速度をあげる。

 トウコは思う。そうして自由を失って、閉じこめられたのは、彼もなのだと。彼は言葉が分かるだけでなく、持ち得たはずの自由をすべて失ったからこそ、自由であるべき者たちを自由にしておきたいと考えているのだと。
 トウコは彼の腕の中で己を抱いた。じくり、踵が急に痛み出す。

 踵の痛みと同じ速度で、心がじくりと痛むのが分かる。
 この人は優しすぎるのだ。
 でなければどうして、己に刃をも向けた娘――トウコを、哀れみ、庇護などするだろう。
 じくり、痛みがじわり、涙に変わる。つんとした鼻先を小さく鳴らし、トウコは上を向いて溢れるのを堪えた。

 絆されない自信など、もはや微塵も残っていなかった。どうしてこの、ケモノたちにさえ愛される優しい人が、幸せになれないのだろうと悔しくさえ思う。態度、体こそ、彼やハルモニアに隷属するわけにはいかないけれど、心はきっともう、彼によって自由を奪われてしまっていたのだ。

 トウコは心の内で、今はなき父王と、若き弟王に懺悔を捧げた。そして、これから自分は二重の裏切りを抱えて暮らしていくのだと、覚悟を決めた。それはもしかすると……体の自由を奪われる以上に苦しいかも知れないと、薄々感じながら。

「トウコ姫?」
「なんでもありません」

 珍しく、気遣わしげに囁かれた声に冷たく答え、トウコはうつむいた。
 心をすでに捕らえられていたからこそ、あの時自分が衝撃を受け、回廊を飛び出したのだと、今やトウコには完全に分かっていた。トウコの心は今、白い月光に照らされて、隅々までが明白になってさらけ出されている。
 トウコは重く息をついた。胸が苦しいのは、心が明確になったことではなく、それを殺して生きていかねばならないと言う事が明らかになったからだ。そして、Nがトウコを気を掛けるのは、ケモノたちに掛けるものと同等のものだということまでも、分かってしまったからなのだ。

「そう。ほら、もうすぐ着く」
「……ご迷惑をお掛け致しました」
「それはキミの従者達に言うべきだね」

 低温で返されたNの言葉に、トウコはこっそり一粒だけ、涙を零す。

 冴え冴えとした月明かりの中、どこかで響く銀狼の遠吠えが、酷く哀しく庭園に響き渡っていた。