戀とはどんなものかしら (小話2.5)

Attention!
おともだちとお話していて生まれた物語で、お友達が書いてくれたお話の続きになります。
「玻璃の戀」とは違う、大正モノ。

 ツキン。

 ……あ、また。

 ツキン、と嫌な音が耳の後ろで小さく鳴るのを、トウコは必死で、無視しようと試みていた。けれども、無視しようと思えば思うほど、その音は彼女を煩わせ、音の根源――額から、耳の裏へと抜ける痛み――を強く意識させるのだ。

 ツキン。

 トウコは浅い息をつき、音に気がつかないふりをする。

 宝石を思わせる、絢爛たる灯りの下で繰り広げられた色の洪水。トウコにはただただ目新しく、眩いばかりの西欧文化、その最たるものの一つである船上の夜会は、もうしばらくすれば一夜の夢と消える、そのような頃合いだった。飴色の弦楽器を並べた楽団は今まさに、最後の曲を緩やかに奏でており、トウコはそれを、愛しい人の腕の中で聴いているのだ。

 ダンスなど踊ったことがないと恥じ入って俯くトウコに彼の人は、いつか円舞曲を教えてあげると優しく囁いて、だから今宵はここで、と彼女をその腕に閉じ込めた。捕らえられた腕の中、キミを自分のものにしたいと、望んでも得られない様な情熱の言の葉を告げられて、トウコの小さな胸はこれ以上ないほどに弾んだ。今日という日を死ぬまで忘れないと、心に誓ったほどであった。
 傍目にひどく涼やかなこの人に、斯様な熱さがあることを、トウコは共に来て初めて知ったのだ。知らなかった彼の熱さはトウコの心を震わせ、蕩け、酔わせた。このまま身を委ねてしまいたい、幾度と無くそんな気持ちに駆られた。
 けれども今日、その想いは、小さく繰り返される音に邪魔されて、トウコの心を満たすに至らなかった。

 ツキン。

 音のなる間隔が、徐々に狭まっていく。額の奥が、脈動にあわせ、じんじんと唸る。

 やめて、やめて。

 あと少しなのに。もう少しだけ、こうしていたいのに。朝が来れば醒めてしまう夢なのだから、今宵だけはこうして抱きしめられていたいのに。
 トウコのささやかな願いも虚しく、痛みは力を増して、彼女を苦しめた。耐えようと食いしばった歯の隙間から、小さなため息が幾度となくこぼれる。

「……トウコ?」
「はい?」

 低く聴きよい愛しい声が耳元でこだまする。慌てて声を上げれば、痛みが脳裏を駆け抜けた。トウコはほんの一瞬、その柳眉を寄せ、けれども微笑んで顔を上げる。するとそこには、わずかに不機嫌そうな、青銀の瞳が二つ、またたいていた。

「あの、N、さま?」

 返事はない。
 いったい、どうしたのだろう。ほんの少し前、目があったその時には、その瞳はこの上もない優しさで、自分を映して輝いていたのに。今この、なんとも言えぬ不審を宿しているのは、一体どうしたことなのか。
 自分は何かしてしまったのだろうか。夜会は初めてだし、洋装も初めてだ。踊ることも出来ないし、船上で交わされる言葉のほとんども分からず、食事のマナーさえままならない。もしかしたら気づかぬうちに、何か粗相をして、彼に恥をかかせてしまったのだろうか。トウコには夜会のエチケットは分からないが、こう言ったことは、祖国と大きく変わるまい、「パートナー」の恥はおそらく、彼の恥なのだ。彼の気分を損ねてしまったのかもしれない。どうしよう、どうしたら。
 にわかに不安になったトウコは痛みも忘れて辺りを見渡し、それからNに視線を寄せた。

「……そんな顔をしないで」

 Nの指先が、トウコの頬を撫でた。その心地よさに、ひとときトウコは、不安を忘れる。けれども同時に、痛みが戻ってきた。

「疲れただろう、そろそろ船室へ戻ったほうがいい」
「……もう、ですか?」
「夜会は一刻もたたぬうちに終わる。目新しいことはもう起こらないよ」
「……でも」
「トウコ」

 優しいけれども強い響きに、トウコはNの瞳を見た。逸らせない。その瞳はたしなめるように、真っ直ぐトウコを覗いていた。

「キミは今、あまり具合がよくないね?」

 はっとして、トウコが息を飲んだ其の次の瞬間には、彼女のほっそりとたおやかな小さな身体は、彼の両の腕の上だった。まるで花のように、トウコのまとうドレスのすそが鮮やかに広がる。人々の目が集まることに気がついて、トウコは思わず瞳を閉じた。頬に血が上る。
 絶句し、抵抗することも忘れたトウコを抱え、Nは足早に広間を後にする。トウコはその腕の上で、震えることしかできないでいた。

「Nさま、下ろしてください、Nさま」

 甲板に出ると、海は柔らかに凪いでいた。それでも、柔らかく吹く夜風が、痛むトウコの額をそっと冷やす。その心地よさに安堵しつつも、トウコは口を開かぬ己のパートナーに向かって、必死に声を上げていた。

「Nさま、その、大丈夫ですから、下ろしてくださいませ」
「静かに」

 Nの声色は固く、幾分か尖っているようにも感じられた。トウコは叱られた子供のように項垂れる。それに気がついたのか、Nはわずかに口調を緩めて、その耳元で囁いた。

「無理はいけないよ、トウコ」
「……だって」

 思わず喉を震わせて、トウコは口を噤む。口答えなんていけない。そう思うのに言葉を止められず、トウコは小さく口唇を噛んだ。声が震え、視界が滲む。

「……もうすこし、ご一緒させて頂きたかったんですもの」

 初めて尽くしの、小さな夜会。ドレスに装身具、コルセットにヒール、着なれぬ衣装は確かに苦しく、この頭痛はきっと、それらのせいだと分かってはいた。

「夜会が終わってしまったら、なにもかも、終わってしまうような、気がして」

 けれども、身体の苦痛を遥かに上回る喜びをトウコは抱いていたのだ。隣にNがいてくれる、言葉を掛けて抱きしめてくれる、ただそれだけで、痛みなどどうでもよくなってしまうほどに幸せだったのだ。
 その時間を少しでも長く味わっていたかった。もう少しだけ、浸っていたかった。そう願っただけだったのに。

「もう少しだけ、Nさまと、あそこに居たかったの……」

 西の世界に生まれたのならば、こんな衣装で苦しむこともなかったのだろうか。痛みに負けた自分が煩わしく、惨めで、トウコは悔しさに口唇を噛んだ。ほろりと零れた涙はNのシャツに落ち、トウコは慌てて、瞳を拭った。

「ご迷惑を掛けて、ごめんなさい……」
「トウコ、キミは……」

 Nは我知らず、腕に力を込めて熱いため息をこぼしていた。そしてそれに気づき、今度は意識して深く息を吐く。この少女はどれほどに、自分の内側を掻き乱せばすむのだろうと、ほんの僅かに口角を上げた。

 ただ共にありたいから、無理をしていたなどと、本当ならば許せるはずもない。そんな馬鹿な事をしてはいけないと、体を大事にしなければならないと、年上の人間らしく、この少女に教えてやらねばならないのだ。そう理性では理解しているにも関わらず、Nには今、己の腕に閉じ込めたこの少女を、ただひたすらに労り、慈しみ、抱きしめて離さずにおきたいと、そうした気持ちしか湧き上がってこなかった。

 これが「愛おしい」と人が呼ぶ感情なのだろうか。このような気持ちが、己の内に眠っていたとは、Nはこの歳になるまで、ついぞ知らなかった。
 もしこれが恋慕の情というものならば、古今の物語に紡がれてきた愛の物語も、全く理解出来ないものでもないなと、Nは生まれて初めてそう思った。恋慕のあまりに身を滅ぼすなど愚の骨頂だと思っていたが、なるほどこれは、理性を犯す、優しい狂気だ。

 言葉をなくしたNを、トウコは不安気に見上げた。きっと腹を立てているに違いないのだ。トウコの心を、暗雲が埋め尽くす。この広い海の上、外つ国へ向かう船の中に、トウコが慕い、頼みとするのはただNだけなのだ。他に寄る辺はないし、寄りたいとも思わない。
 いったいどう言葉を尽くして謝れば、許してもらえるものだろう。トウコが思案し、その小さな手のひらを己の心臓に当てたその時、凛と通る、けれど柔らかい声が、二人の背後から掛かった。

「そちらにいらっしゃるのは、Nさんとトウコさん、かしら」

 はっとしたNがトウコを抱えたまま振り返ると、声の主――トウコに衣装を貸し出した、あの老夫人だ――はあらあら、と優しい声を上げた。

「トウコさん、どうかなさったの?」
「どうも、加減がよくないようなので」
「あらあら……」

 Nは簡潔にそう答え、トウコをそっと、腕から下ろした。その仕草に彼女はほほえみ、ごめんなさいね、とトウコの額に手を伸ばす。
 トウコの柔らかな巻き毛をかき上げ、触れた指先は母のそれによく似ていた。トウコが思わず目を閉じるのを、Nはじっと見つめている。ややあって、夫人は指をはなし、ほんの少し、眉根を寄せた。

「ねえトウコさん、もしかしてあなた、頭が痛むのではなくて?」

 驚きに顔を上げたトウコに、夫人は微笑む。目を見開いているトウコと、首をかしげているNに向かって言葉を続けた。

「トウコさんはお衣装、初めてだと言ってらしたものね。お靴もコルセットも苦しいでしょうし、それに、耳飾りをつけるのは、初めてではないかしら?」
「そうです……」
「お靴とお衣装は無理でしょうから、とりあえず耳飾りを外してご覧なさいな。耳飾りはね、あまり長いこと付けていると、頭が痛むものなのよ。慣れてしまえば痛まなくなるのだけれど」

 耳を締め付けるものだから、仕方が無いわねと苦笑する。トウコは恥じて俯いたが、Nはその肩をそっと抱いた。夫人は目を細め、優しい婚約者様ねとささやいて、トウコを余計に赤面させる。

「でもね、トウコさん。恥じることはないわ。わたくしも娘時代には、何度も苦しんだものよ。きっと、みんなそう」

 言って、夫人はトウコの顔を上げさせた。

「女の子はね、背を伸ばして、まっすぐに前を向いていれば、それでいいの。それが一番、きれいなのよ。だから、しゃんとしていらっしゃい」
「……はい」
「そう、それでいいわ」

 夫人の言葉に、トウコの背がすっきりとのびる。月光に燐光を放つなだらかな肩、晒された背に、Nは目を細めた。確かにそうして凛と立つトウコは、Nの目にも、とても美しかった。
 ――誰にも、たとえ夫人にであっても、見せたくないと、隠してしまいたくなるほどに。

「マダム、ご主人がお呼びです」

 声とともにカツンカツンと足音が聞こえた。三人が顔を上げると、メッセージボーイが、数歩離れた所に立っていた。それに鷹揚に頷いて、夫人は手を口に当てて笑った。

「あらまあ。あの人ったら、わたくしがすこし外すと、すぐこれなんだから。……ごめんなさいね、失礼させて頂くわ」

 はい、とトウコが声を上げ、Nも小さく頷いた。夫人は扇を翻し、メッセージボーイを従えて踵を返す。

「おやすみなさいね、おふたりとも。素敵な夜を」
「良い夜を」
「おやすみなさいませ、奥様」

 そうして、コツコツと上品な靴音を鳴らして、彼女は去っていった。
 相変わらずのしゃんと伸びた夫人の背を見送り、トウコはほう、とため息を漏らす。あのようになれたら、と強く思う。そうしたらきっと、何を恥じることもなく、Nの隣に立っていられるのに、と。

「ひゃ……!? え、Nさま?!」

 感慨にふけっていたトウコを引き戻したのは、首筋に触れた冷たい何かだった。驚き振り返ると、トウコの髪をかき上げるように、Nの白い指が、触れている。
 驚いて固まるトウコをよそに、Nの長い指は器用にトウコの髪を寄せ、白磁の貝を思わせるトウコの耳をなぜた。

「外したほうがいいと、夫人もおっしゃっただろう」
「で、ですけど! ん……っ」

 Nはトウコに有無を言わさず、金具に指を立て、優しく引き抜いた。右に、左に、立て続けに触れられて、ぞくりとトウコの背は泡立つ。トウコは細い指で思わず、Nの上衣にしがみついた。

「あ、あの」
「……赤くなっているね」
「、え、えぬさ…………んっ」

 白い耳たぶに赤く残る、金具の痕が痛ましい。Nは思わず、口唇で触れた。まじないだと告げたあの言葉を、トウコはまだ信じているだろうか。
 やわやわと食み、痕を残さぬよう、舌で撫ぜる。

「ん……あ、やっ……」
「痛かったろう、可哀想に」
「あ……!」

 なれぬ感触に上がる声に、自分の内側の何物かが侵食され、荒ぶろうとするのを、Nは理性で押し込めた。けれども全ては耐え切れず、ほんのすこしだけ、空気抜きに、耳の上に歯を立てる。

「は……、あっ」
「辛いときは、ちゃんと言わなければだめだよ」
「えぬ、さ、ま……やあ!」
「……おしおき」

 優しい愛撫、耳を食まれる感触に、トウコは己の身体から力が抜け落ちるのを感じて、Nにしがみついた。全身を甘い痺れが駆け抜ける。とても立ってなどいられなかった。
 耳元で囁かれる声は低く甘く、鳴る水音はひたすらに、トウコの体の奥を熱くした。脈動は倍速で走り出し、息が苦しくなる。
 このままこうしていたら、心臓が壊れてしまう。トウコはそんなおそれを抱いて、細い喉から声を絞り出した。

「えぬさま……! も、もう、やめて、下さいませ!」

 必死の声は小さく掠れていた。それすらも恥ずかしく、トウコは震える指に力を込める。Nの上着にしわが寄ったが、構っていられなかった。

「……し、心の臓が、もちません……」

 お願い、やめてと懇願し、滲む瞳でNを見上げる。彼は我に返ったようにその銀色の瞳をまたたかせ、ああ、と声を上げた。

「それは、ごめん」
「い、いえ、あの…………」

 耳元から口唇が離れ、トウコは深く息をつく。少し寂しく思った己をはしたないと叱咤して、ふるふると首を振った。

「嫌だった、わけでは、ない……です」

 うつむいて、ぽろりと呟き、トウコははっとして頬を染めた。自分は今、何を言った? はしたないにも程がある!
 固まってしまったトウコは、見下ろすNが微笑んだことに気がつかなかった。

「トウコ」
「はい……きゃあ?!」
「足も痛むのだろう? 気がつかなくて悪かったね」
「え、Nさま! 大丈夫ですから、おろし……!」
「暴れると落としてしまうよ、大人しくしていて」

 満足気なほほえみを向けられて、トウコは反論の言葉を無くしてしまった。もう、知りません。拗ねたような言葉をこぼし、Nの胸に顔を埋める。そう、とだけ答えたNはトウコをその腕に抱いたまま、船室へと足を向けた。

 ひらり、トウコのドレスの裾が夜風に舞って、トウコの視界の一端を染める。それは、まだこれは夢の始まりに過ぎないのだと、トウコに教えているかのようだった。