玻璃の戀:泡沫人

Attention!
パラレルです。大正時代っぽいファンタジーな舞台設定で、義理の兄妹なえぬさまととうこさんのおはなし。

 塵ひとつなく、飴色に光る広縁に、Nは腰掛けていた。この時間になると庭の木漏れ日が陽だまりとなって、そこかしこで金色に輝くのだ。屋敷に出入りする猫たちが心地良さ気に眠るその空間は、Nの気に入りの場所だった。
 晴れた日の午後、Nは必ず、父親の書斎から持ち出した本をそこで広げた。それを知るが故に使用人たちも、陽が翳るまではそこを通らない。Nが紙を繰る音、猫の寝言、そして木の葉擦れの音だけが満ちた静かな場所。Nにとっては大切な「聖域」だった。

 けれどもその日、「聖域」を破る気配があったのだ。はじめ、その気配が侵入したことに気づいたNは顔をしかめ、庭に解き放たれている大型犬を呼び寄せようと試みた。けしかけて、追い払おうと考えたのだ。けれども幸か不幸か、犬はその場にいなかったようで、主人の呼びかけには応えなかった。
 この時間に使用人が通ることはないし、客人が通るような場所でもない。この場に現れるN以外の人間は、Nにとってすべて不審者だ。Nはため息をつき、不審者の侵入に身構えて、厚い書物をパタンと閉じた。古い書物の香りがふわりと湧き立ち、Nの鼻孔をくすぐる。ぱたぱた、小さな、そしてどこか不慣れな足音が、徐々に大きくなる。

 そして。

 Nはぱちくり、瞬きをすることになる。

 ぴたり、微かな足音が止み、伺うような気配がそこに漂った。害意のようなものは感じられず、Nは瞳を閉じる。
 おおかた、新参の使用人が屋敷の中で迷ったのだろう。広大な敷地と巨大な屋敷を有するハルモニア家では、よくある事だった。もしそうならば自分は主一族の者として、正しい通路を教え、そして二度とここに立ち入らぬよう、きつく告げなければならない。父親と違い、人に対して強くものを言うことを好まないNは、重い気持ちで顔を上げた。

「あの」

 Nはわずかに目を張った。聞こえるはずのない声だった。

「えと、わかさま、ですか」

 ちいさな子供の声。年の頃は、五つか、六つか。使用人として雇い入れるには、いくらなんでも幼すぎる。思わず振り返ったNの目に飛び込んできたのは、陽だまりの中で輝く薄紅の光――桜を染め抜いた振袖の、小さな、小さな女の子だった。

 Nは一瞬、人ならざる者の存在を疑い、思わず二度三度、その瞳をまたたかせた。幼い頃に読んだ神話の、花の女神を思い出したのだ。けれどもそれはあくまで「物語」だと知っていたNは、己の考えを即座に否定した。
 そんなものは存在しない。神話は神話だ。

 Nと目があった小さな娘は、呆けたように口をあけて、こぼれそうに大きな丸い瞳を見開いていた。ああ、空の色だ、とNは思い、その薔薇色の頬に瞳をやって、健康そうな子供だな、と子供らしくない思考を抱く。
 きっと、客人の子どもが迷い込んだのだろう。そう判断し、Nは口を開いた。

「……キミは」
「あ、あの! あた……わたし」

 Nに声を掛けられた娘は、心底驚いたようだった。子猫のように跳ね上がって、ピン!と背を伸ばす。

「きょうから、おせわになることになりました、トウコ、です! よろしくおねがいします、わかさま!」
「……トウコ?」
「はい! あの、カノコから、きました」
「カノコ……」

 Nの頭脳がくるりと回る。殊の外優れた記憶力を持つNの脳みそは、ひと月程前に父親が一言告げた言葉を、またたく間に引きずりだした。

『カノコに遠戚の一族がいることは知っていますか』
『いいえ』
『随分と昔にハルモニアから分かれた一族の末裔が、カノコに住んでいます。とはいえ大した格もない、平民と変わらぬ落ちぶれた一族ですが』
『はじめて聞きました』
『そうでしょうとも。お前が生まれてからこちら、交流などありはしないのですから』
『そうですか。その人達が何か?』
『そこの娘をひとり預かる事になりました』
『……そうですか』
『お前より幾つか年下の娘だと聞いていますが、恐らく碌でも無い娘でしょう。お前が面倒を見て、ハルモニアの仕来りを叩き込んで上げなさい』
『わかりました』

 父親が憎々しげに語っていたのが気にかかったが、いつものことだと考えなおし、無感動に受け止めたことを思い出す。ああ、と小さく呟けば、トウコは安堵したように、小さくため息をついた。

「そう、キミが」
「はいっ! あ、あの、わかさまが、こっちだと、きいたので、きました。その、お、おじゃましました!」

 言葉の少ないNに、不興を買ったと思ったのだろう。格が低い家柄なのだからNと親しくしてはいけないと、言い含められてきたのかもしれない。トウコは舌足らずな敬語で頭を下げて、慌てたように踵を返す。ふわり、高く結われた豊かな髪が広がって、紅い組紐が可憐に揺れた。

 待って、とNは思わず呟いていた。

 それは常ならばそのまま消えてしまうような小さな音だった。誰もが気づかずに無視してしまうような、Nの小さな独り言。けれども、白い足袋の小さな足はぴたりと止まり、こどもはくるりと振り返った。
 青い瞳が、Nの銀色の瞳を見上げる。

 この小さな女の子が、今日から自分たちと共に暮らすのか。Nは改めて、トウコを見下ろした。子供の瞳はどこまでも澄んでいて、冬の晴れた空のようだ。袖から覗く細い手首も、庭の犬より小さな身体も、人形のように小さな足も、まるで頼りない。まるい頬も、明るい面差しも、高くて綺麗な子供の声も。何もかもが、Nの日常にはなかったものだった。
 ――これは、生まれたばかりの子猫と同じ。誰かが守ってあげなければならないものだ。

 この、大人だらけの屋敷の中で。おそらくは、自分が。

「……あのう、わかさま?」
「……兄様」
「はい?」
「兄様でいいよ、トウコ」

 よろしくね、早口に呟かれた言葉に、トウコは目を丸くし、そして。

「はいっ! にいさま!」

 大輪の牡丹が開いたように、笑った。

「……兄様、兄様」

 己の肩に掛かる細い指先に気がついて、Nはゆるゆると覚醒した。声のした方を見上げれば、空色の瞳の娘が、心配そうに眉根を寄せて、Nを覗き込んでいる。

「……トウコ」
「兄様、こんなところで眠ってしまっては、お身体に障ります。きちんとお部屋でお休みになってくださいまし。お風邪を召されても知りませんよ」

 柔らかな声が紡ぐ叱責に、Nはわずかに口角を上げた。

「……兄様?」
「夢を見た」
「夢、ですか」
「トウコがうちに来た日の」

 トウコの青い瞳が見開かれた。そうするとあの頃の面影が垣間見えて、Nは笑みを深める。

「桜の着物を着ていたね。あかい組紐で髪を結っていた。ボクの腰ほどまでしか背もなくて」
「余り覚えていませんけれど……何分、五つでしたから」
「トウコは小さかったからね。子猫みたいに頼りないなと思ったんだよ」

 Nは座ったまま、トウコを見上げた。幼い自分の思い出が恥ずかしいのか、トウコは薄闇の中で頬を染めて、Nの言葉を聞いている。夢の子供の姿とそれが重なって、Nはちいさくため息をついた。

 トウコは美しく育ったな、とNは思う。周囲はお転婆だと彼女を評するが、それはトウコを知らないだけだ。Nを兄様と呼んで微笑むトウコの笑顔を、悲しい話に涙する横顔を、縁側でうたた寝をするその寝顔を。知らないだけだ。
 母親も美しい人だというから、当然の結果なのかもしれないが、それでもNには不思議で仕方がなかった。あんな小さな女の子が、こんなにも。艶やかで健やかで、愛らしく育つものなのか。人体は不思議で、時は魔術師のようだ。

「……トウコは大きくなったね」
「兄様」
「卒業したらここを出て行くんだものね」
「兄様……」
「……トウコが嫁に行く日がこんなに早く来るとは思わなかったな」

 数日前、女学校を出たらお前は嫁ぐのだ、とトウコに告げた父親の横顔を思い出し、Nは少しだけ顔を歪めた。その時トウコは驚きに顔を上げたが、ややあって諦めたように俯いたのだ。そして「はい」と答えたのを、Nの耳は確かに捉えていた。

「……兄様だって、ご結婚なさるんでしょう。婚約者候補の方が、連日いらっしゃっているじゃありませんか」
「ボクはもう少し先の話だ。いずれ嫁は貰うだろうがまだどうなるかは分からない」

 トウコほど、すぐにもという話ではないんだよ、そう言うとトウコは苦笑した。そうですね、と呟いて、また俯く。

 トウコは嫌なのだろうか、とNはぼんやり考えた。
 親の決めた相手の元に嫁ぐこと、それは決して珍しい話ではない。むしろ普通のことだ。
 けれども、もしもトウコに想う相手がいたならば。
 トウコは養父の命には逆らえないし、逆らうつもりも、恐らくないだろう。きっと、想い人がいたとしても、黙って嫁ぐのだ。他の数多の娘たちと、同じように。

「トウコは嫁に行くのが嫌なのかい」
「……え?」
「……誰か想い人でもいるのかい」

 軽く聞いた問いかけは、思いの外重く、縁側に落ちた。トウコは蒼褪め、Nを真正面から見つめる。落ちた沈黙をかき消そうと口唇を開き、鯉のように開けては閉じて……最後にそれは、堅く結ばれた。
 そしてトウコは、思い詰めた白い顔のまま、はっきりと言った。

「いいえ」

 ……ああ、いるのだな。

 トウコだって年頃だ。想い人のひとりやふたり、いたところで、驚くことではない。それなのに。

 Nは己が、激しい衝撃を受けたことに気がついた。
 それは落雷が胸に落ちたような、神の手によって喉元を締め上げられるような、理解しがたい感情だった。心臓はゴム鞠のように弾み、脈拍は常日頃の倍速で回る。己を廻る血液が、一斉に落下したのを、Nは感じた。呼吸が苦しい。目眩がする。身体が唐突に不調を訴えて、怒鳴りだしたようだった。

 一体これはなんなのだ、Nは自問し、狼狽える。
 なんら不思議のないことだ。自分は何故に、こんなことに衝撃を受けているのだろう。

「トウコには好いた人はおりません。嫁ぐことを嫌だと思ってもいません。わたくしが嫁ぐ事でハルモニア家に益があるならば喜んでお嫁に参ります。今までにたくさん注いでいただいたご温情にお応えできるのですから嬉しいことです」

 トウコはまるでNのように、早口で畳み掛けた。自分に言い聞かせているようだ、Nはそう感じ、軋む己の胸に手を添える。トウコの言葉を聞くのが苦しいなどと思ったのは、あの日から、はじめてのことだった。

「卒業すれば実家に帰されるのだろうとばかり思っておりましたから、嫁ぎ先を見つけてくださったお義父様には感謝しております。わたくしには勿体無いようなおうちだと伺っておりますし」

 不安ですけれどきっと上手くやれますわ、トウコは泣きそうな顔でそう笑い、Nを見上げた。Nは言葉を見つけられない自分の口唇を、さりさりと噛む。

 兄としてここは、励ましの言葉をかけるべきなのだ。お前なら心配ない、向こうの方もきっと良くしてくれるだろう、お前の相手は自分の知人で善人だからお前もきっと好きになれる、幸せな家庭を築けるはずだ。……言えるはずの言葉は五万とあって、そのどれかひとつでもかければ、トウコの泣き笑いは和らぐだろうと分かっているのに、Nはそのどの言葉を選ぶこともできなかった。
 ただ、嫁ぐトウコの花嫁姿を思い、トウコの夫となる人物を思い、その人物と家庭を築いて行くだろう姿を思い描いて……悲鳴をあげる心臓をなだめることに、精一杯だったのだ。

 ――誰よりも幸せになって欲しいと、幸せにしたいと願っている、『妹』なのに。

「……兄様?」
「……すまない、おかしなことを聞いたね」

 忘れておくれ、Nは無表情にそう答え、隣りのトウコの頭をくしゃりと撫でた。指先に伝わるなめらかな髪は、幼い頃のそれよりも、張りがあってしなやかで、まるでトウコ自身のようだ。Nは自分の、こしのない柔らかい髪のことを考える。そちらはそちらで、まるで自分のようだなと。

 そんなことを考えていたものだから、Nは見逃してしまったのだ。

 ――トウコの頬を滑り落ちた、一粒の涙を。