足音

 あれえ。

 おっとりというかのんびりというか。やわらかく優しいけれどどこか頼りない声に、それはボクのセリフだ、とNは思った。とある冬の日の、午後三時のことである。

「ここ、トウコのうちだよねえ?」
「キミは確か……」
「その緑の髪……あなた、Nさん、だよねえ?」
「キミは、ベル、と言ったっけ」
「そうだよ! えっえっ、どうしてNさんがいるのお?!」

 トウコは買い物に行くと言って、2時間ほど前から出かけている。Nは特に用事もないので留守番と称して、窓辺で本を読んでいたのだ。「来客があったら、居留守を使って構わない」、トウコからそう言われていたが、玄関前で聞こえた声に心当たりがあったせいで、思わず開けてしまった。そうしたら、金の髪のトウコの幼なじみが、ぽかんと瞳を見開いて、そこに立っていた、というわけだ。

「Nさんイッシュ地方に帰ってきてたのお?! ふええ、いつ?! 全然知らなかった! あたし電気石の洞穴以来だよお! うわあお久しぶり!」
「トウコからは何も聞いていないのかい?」
「あ、そう! あたし、トウコに会う約束してて。それでね、会うの1ヶ月ぶりくらいだったの。だから全然」

 そう、とNは呟いて、はてどうしたものか、と首を傾げた。冬らしく、小さなアパートの廊下は寒い。目の前には歳若い女の子がひとり立っている。このままにしておけば風邪を引いてしまうだろう。
 会う約束をしているというのだから、トウコに会いに来たのだろうが、家主不在の今、勝手に上げて良いものだろうか。幼馴染だという彼女ならば、トウコは問題視しないかもしれないが、果たして。
 ベルはその、若草色の大きな瞳を見開いて、わあ、とかびっくりした、とか同じ言葉を繰り返している。

「もう一度聞くけれどキミはトウコから何も聞いていないんだね?」
「何かあたしに言わなきゃいけないようなことがあるの?」
「……当人が言っていないのならボクから言うことでもないだろう」
「そうなの?? あ、ねえねえ、Nさんはここで何をしてるの? トウコのところに遊びにきたの?」

 Nは、どう返答したものかと迷い、しばし逡巡してから口を開いた。あのトウコのことだから、故郷の幼なじみにくらいとっくに自分の話をしているだろうとNは思っていたのだが、どうもそうではなかったらしい。
 何かがちくりと、Nの鈍い心を刺激した。

「……ベル、だったね」
「そうだよ」
「今トウコは買い物に出かけていていないんだ」
「あ、そうなんだ」
「ボクは今から出かけるからボクの代わりにトウコを待っていてくれないかな」
「ふえ?」

 ベルの了承を待たず、Nは玄関側に掛けてあった自分のコートを掴むと、それを羽織った。踵をならして足を靴に押しこみ、くるりと回ってその立ち位置を、ベルと入れ替える。

「トウコが出掛けたのは2時間15分前だ。夕方前に戻ると言っていたからそろそろ戻るだろう」
「あっ、Nさ……」
「トウコによろしく」
「えええ、Nさんー?!」

 ばたばたと慌てふためく音が聴こえて、Nは喉の奥で小さくわらう。扉を閉め、ひとつ、深く息を吸い……冬空のような、細く寒々しいため息をつく。

 それから、彼はかすかな足音を残して、アパートの階段を降りていった。