秋雨

 ああ。

 トウコはほそく、息を吐いた。吐き出されたそれは白くゆるりと、青灰色の空にのぼる。
 パンを買いに出かけ、店を出ようとしたところで雨に降られてしまったのだ。
 しん、と静かに冷えた午後のことだった。

「降ってきちゃったわね」

 赤いパン屋の軒先で、トウコは小さくつぶやく。ばちゅ、と彼女の頭の上で、黄色い毛玉が主張した。ぺしんぺしんと、ちんまりとした前足で、少女の頭を叩いている。

「まだ、もつかなぁって思ったのよ」
「ばちゅ」
「もたなかったねー……」

 ごめんごめんと囁いて、トウコは頭上に手を伸ばす。胸元に降ろされた、ぷるぷるとふるえるバチュルは青い瞳をぎゅっと吊り上げて、何かを主張するように繰り返し鳴いた。

「ばかーって? ごめんったら」

 仕方が無いなあ、とでもいいたげに、バチュルは鳴いて胸をそらした。許してあげるよ、と言いたいのだろうか。分からないけれどきっと合ってる、トウコは苦笑して、小さな黄色い塊をまたそっと頭に乗せた。どうもそこが収まり良いらしいので。

「しっかし、どうしようかしらね」

 どんより暗い空を見上げ、トウコは腕を組む。
 不運にも、バチュル以外のポケモンはみんな、留守を任せてきてしまった。野生の子に助力を願ってもいいだろうが、Nとは違い、ポケモンの言葉はわからない自分だ。行き違いがあって、お互いが濡れたりしたら、残念すぎる。

 降りだしてどれほどもたたないというのに、空気はあっという間にひんやりしっとりとして、じわりじわりとトウコの肌にしみた。もう少し厚着してくればよかったかしら、いまさらの後悔に頬をふくらませ、ふう、とひと息つけば、呼気はさきほどよりもずっと濃く白く、トウコの口もとを漂う。気易い休日、何気なく羽織ってきた薄手のパーカの上から腕をさすり、ぶるりと震えると、バチュルが頭上で小さく鳴いた。

 言葉を切り、息をひそめると、さあさあさあ、細い雨の音がする。冬へと向かう木々を濡らし、その香りをいっそうに膨らませて、雨は地面に吸い込まれていく。深く息を吸うと、枯葉の匂いがつーんと、鼻の奥で広がった。

 そう遠いわけではないし、濡れていくのも悪くないかもしれない。バチュルは胸元に入れれば濡れずにすむだろう。
 頭上からバチュルをおろし、パーカの胸元に押し込んだトウコが、息を吸って軒下から足を踏み出そうとしたその時――バチュルが甲高く鳴いた。

 顔を上げると目の前に、黒い傘が広がる。
 萌黄色の髪をした、長身の青年が立っていた。

 青年の青銀色の瞳は、雨の日の空に似ている。全体に明るく、けれど曇っていて、どこにも光の中心がない。綺麗で、けれどどこを見てなにを思っているのか、わかりづらいのだ。
 トウコはぼんやりと物思いにふけり、ややあって、その青天色のつぶらな瞳を大きくまたたかせた。Nがこんな所にいる筈はないのだ。彼は今朝からひどく眠たげで、出かけようと言ったトウコにも、首を左右に振っていたのだから。

「ああ、そっか……あなた、ゾロアーク、でしょ」

 ちがう? そう首を傾げると、緑の髪の青年は、にっ、と口角を上げて目を細めた。全く同じ顔であるのに、これほどまでに違って見えるのか、とトウコは驚きに目を丸くする。屈託の無い、悪戯好きの子供のような笑みだった。
 ゾロアークは時々、Nに断りなくNの姿になる。目的は悪戯だったり、ポケモンの入れない場所に入るためだったり、様々だ。Nは長いこと、ゾロアークのしたいようにさせてきたらしく、ゾロアークの行動には遠慮がまるでない。今になって、その度に慌てたようにNが飛んでくるのを見ているのは、トウコのちょっとした楽しみだ。

「どうしたの? N置いてきちゃっていいの?」

 N……ゾロアークは笑んだまま頷き、左手をひょいと高く掲げた。チャラ、とブレスレットが鳴る。そこには赤い傘がひとつ握られていた。トウコの傘だ。
 Nにイリュージョンしたゾロアークの肩へ、バチュルがうれしげにぴょこんと飛びつく。ゾロアークはNとよく似た仕草でバチュルを頭上に乗せた。ゾロアークがゾロアを育てるとき、長いたてがみの中に入れておく習性があるらしいので、恐らく頭に乗せるのが安定するのだろう。トウコは微笑ましくそれを眺めた。

「迎えに来てくれたの? ありがとうゾロアーク」

 ゾロアークはうなずいて肩を竦める。「Nは気が利かないから」とでも言いたいのだろう。トウコは「そうね」、と苦笑した。
 Nとゾロアークを見ていると、まるで兄弟のようだなあ、とトウコは時々思うのだ。頭はいいけれど世間知らずでちょっぴり頼りのない兄と、妙に気の利くいたずらっこな弟。そういうふうに見えるし、本人達も、そう認識している風だった。

「朝に言ってた美味しいパン、限定だけど無事変えたのよ。だから明日の朝はトーストね。ゾロアークにも焼いてあげる」

 傘を受け取りながらパン屋の袋を掲げて見せれば、ゾロアークはそれはそれは嬉しそうに笑った。Nの顔をしているものだから、なんだかひどくおかしくなって、トウコは小さく吹き出す。

「ふふ。Nもあなたみたいに、たまには笑ったらいいのにねえ」

 全くだ、と言いたげに、ゾロアークはまた肩を竦める。
 その仕草はNとそっくりで、トウコは再び、明るく笑った。